岡崎 武志
第38回 大正15年の荷風の夏
朝日新聞夕刊、月1回の津村記久子のコラム「となりの乗客」を楽しみにしている。毎回、思いがけない切り口で日常が語られ、文章にアイデアとセンスがある。これはとても真似できないと、末端の同業者ながら白旗を揚げるしかない。9月18日付けは今年の夏に手を焼いた話。まずは猛暑、ほかパリ五輪、南海トラフ地震の注意報、挙動の読めない台風、コメ不足と「大暴れな夏だった」。ここまでは誰でも言う。津村はそれを「もう、一年から七月と八月を取り除いてもらえないかとすら頭に過ぎる」と書いた。私は思わずのけぞった。いやあ、実感こもっているわ。そうとしか言いようのない今年の夏だったのである。私は自由業でかつ座業であるからして、あまり外を出歩かなくて済んだから「酷暑」の被害は少ない。それでも外出する機会はあり、そのつど太陽の攻めに手を焼いたが、同時に少しの歩行でも脚にダメージを覚えるようになった。スマホの万歩計をみると、3000~4000歩ぐらいでも太ももが張る。ちょっと恥ずかしい。
暑さ寒さも彼岸までと申しますが……と書けば落語の枕みたいだが、9月に入っても猛暑日の記録を更新する異常事態が続いた。それも秋分の日(9月23日)を迎える前(つまり「彼岸」)あたりから暑さは和らいでいった。ずっと家に引きこもっていたが、涼しい朝を迎えた9月24日午前、玉川上水を散歩することにした。1年、いや2年ぶりぐらいか。以前は涼しくなると、週に2、3度は緑陰の下、水音を聞きながら1時間ほど歩いたものだった。寒い時期でも上半身と額に汗をかいた。
このままではいけないと9月、すっかりなまった脚力アップのため、約1時間、7000歩の散歩をしてきた。肩から下げる小さなバッグには手ぬぐい、手帖と筆記具、スリムな水筒を入れ、毎回、文庫を1冊忍ばせるのだが、今回は永井荷風著・磯田光一編『摘録 断腸亭日乗(上)』(岩波文庫)をお供とする。荷風(1879~1959)が38歳から79歳まで克明に綴った日記で、全集版なら3000ページを有する分量を文庫版2冊に抜き出したもの。私はもっぱらこれによる。
文庫版2冊ですら通読はしたことがなく、折りをみて、気づいたら開いて少し読むという接し方をこれまでしてきた。今回確かめたかったのは大正15年(1926)の部分。いや、ほかの年でもよかったのだが、ざっと100年前、東京の夏の暑さはどうだったのかをチェックしたかった。
まずは津村記久子が「取り除いてもらえないか」という7月から8月の天候の記述のみ引く。
七月六日。快晴。暑気いまだ甚しからず。
七月十四日。晴れて暑し。
八月九日。細雨糠の如く、薄寒暮秋に似たり。
八月十一日。残暑甚し。されど東南の風終日吹きつづき、静坐読書すれば汗出でず。
100年前も日本の夏は暑かった。ただ「暑し」「残暑甚し」とあるものの、気温が書かれていないので、どんな暑さか想像がつかない。気象庁公開の記録によれば、およそ100年前の東京の気温の平均値は、6~9月で26度を超えた日は1日もないという。書くまでもないが、2021年以降、真夏日と猛暑日が記録破りで長期間、東京を熱している。だから、荷風の書く「暑し」や「残暑甚し」も、おそらく20度半ばではなかったか。
現代の東京で私がこの原稿を書く日に近いのは「九月廿六日」の記述。「曇りて風なく静なる秋の日となりぬ」は私が感じる気候に近い。短くなったものの秋は秋なのである。この日荷風は「宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蟀の鳴声、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞こえ出しぬ」と記す。たしかに少し涼しくなると日本茶が飲みたくなる。秋の気分がよく出ています。
大正15年(残り1週間ほどで昭和に改元)の荷風は、大正9年に築地から越した麻布市兵衛町に新築した洋館「偏奇館」に住む。関東大震災にも無事だったが昭和20年3月の東京大空襲で焼失した。年譜によれば、大正15年8月より、銀座尾張町のカフェー「タイガー」に通い始める。たしかに『断腸亭日乗』にも「タイガ」のち「太訝」の記述でひんぱんに登場する。西暦に直せば1920年代は、百貨店、洋装断髪のモダンガール、円タク、ダンスホール、カフェーの流行と急速に都市のモダン文化が花開いた時代だった。
「十一月二十日」にカフェーの流行がいかなるものか、その実態を報告している。それは21世紀日本の女子が集うお洒落な「カフェ」ブームとは全く異なる。そこに「女給」と呼ばれる女性店員が存在し、彼女たちは「給料を受けず、客の纏頭にて衣食の道を立つ。されば窃かに売色を以て業となすは言ふを俟たざる所」であった。「纏頭」とは「チップ」のことであり、「売色」は「売春」と同義語。
また、「タイガー」は30名の女給を雇い、10名ずつ組を作り「赤組紫組青組」と分けた。その別は前垂に「七宝焼の徽章」をつけて区別したという。さすが作家の眼で観察が細かい。
「十二月二十日」には、この「タイガー」にいて火事に遭っている。近くで出火したのがたちまち燃え広がり、窓際にいて熱気を感じるまでになった。みな店から逃げ出すことになるが「酔客この機に乗じ勘定を払はずして去るもの尠からず」とある。私もやりそうだ。こういう歴史に残らない実体験の記述がばつぐんに面白い。
ついでにもう一カ所。同年「十月初二」に「西郊の秋色を見むとて、午後電車にて玉川双子の渡に抵り、杖履逍遥、世田ケ谷村に、葵山子を訪ふ。相携へて駒場農科大学の園林を歩む」とある。荷風と言えば、玉の井や浅草など「東」のイメージを持つが、当時は郊外と言うより田舎と呼ぶに近い、現在の二子玉川あたりまで足を運んでいたとは驚いた。この日の遠出の目的は「駒場農科大学の園林」(植物園)にあり、植物の名前を知るために足を運んだ。日記にもそのため再三訪れたと書いてある。江戸人の気質を継ぐ植物や花好き、今どきの呼び方なら「ガーデニングの人」であった。
(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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