岡崎 武志
第39回 幸田文全集を目で愛でる
ときおりお呼びがかかって、人前で読書や古本について喋ることがある。とくに「古本」について語るとき、これはやはり「古本」でなきゃならないと特性を示すのに持ち出す本の一つが『幸田文全集』(中央公論社)である。幸田文の全集は岩波書店からも出ているが、私の力こぶが入るのは昭和33年から刊行された全7巻の中央公論社版。四六判で黒い函に入っている。古本市などで見かけ、値段が手ごろなら拾いたいがなかなか見つからない。ネット検索すると某店が7巻揃いで9900円をつけ、しかしすでに売約済だ。端本ならもう少し安く入手できるかもしれない。しかし、リアルにはあまり見かけない。もし500円以下で発見したら、ためらいもなく買って下さい。持ってるのと持ってないのとでは大違いの出版物ですぞ。私がいま目の前にしているのは第1回配本の第6巻。売れる作品をトップに置くのは定期刊行物の常套だ。収録作品は「流れる」。昭和31年11月に成瀬巳喜男監督による同名映画化作品が公開されたばかり。田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子ほか大スターを配し、映画はヒットした。小林信彦は原作よりむしろ映画の出来がいいと言う。東京・柳橋と目される花柳界の芸者置屋を舞台とした長編小説だ。「流れる」については過去に他の媒体で触れている。だから中身については語らない。ここで注目するのはあくまでパッケージだ。
後ろ見返し、つまり最終ページに刻まれたクレジットを写す(新字に改める)。
「題字 奥村土牛/写真 田沼武能/装本 浦野理一」
この豪華さに何のリアクションもできない人は、これから書くことは耳に入らないかもしれない。だが、私は先へ進む。その次、級数を落として「布地 浦野繊維工業」、さらに本文と見返と函貼担当の各社名、印刷は精興社、さらに写真版、製本、製函と念の入ったクレジットが続く。すべてが一流、ということなのだ。なお奥付の検印も、月報の記述によれば、わざわざ日展評議員の山田正平が篆刻した印を使っている。ぜひともここでため息をついてもらいたい。
とくにここで取り上げたいのは装本の浦野理一。布地が浦野繊維工業とある通り、本体をくるむ布地はこの全集のための特漉きである。その毛織木綿の茶と薄鼠色の格子柄は「幸田格子」と呼ばれた。そのぜいたくぶりに、同年代の女性作家が嫉妬したと言われる。たしかにここまで装幀造本に手を尽くした全集は出版史上の空前絶後と言っていい。
奥村土牛、田沼武能に比べれば浦野の名はそれほど知られていないかもしれない。しかし小津安二郎の映画ファンにはおなじみの名前なのだ。小津の最初のカラー作品となった『彼岸花』以後、『秋日和』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』の衣装としてクレジットされたのが浦野繊維染織研究所だった。すなわち浦野理一(1901~91)だ。
浦野は日本橋白木屋の呉服部から独立し、北鎌倉東慶寺での作品展など染織研究家としてその名が知られていく。雑誌「ミセス」では、その死まで30年近く「きものページ」を連載し、版元の文化出版局から多数、著作も出ている。
手で触る感触もまた読書行為の一部
また、2023年には、小津安二郎生誕120年を記念して、『染織工芸家 浦野理一の仕事 小津映画のきもの帖』という本が出版された。どうです、すごさの一端が伝わっただろうか。ここで浦野理一の名前を憶えてもらうだけでこの原稿の役目は果たせたようなもの。小津映画のカラー作を見直す時にも、浦野繊維染織研究所の名を見逃さないでいただきたい。
ふたたび、池の周りを巡るように『幸田文全集』第6巻を眺めよう。幸田は周知のとおり、父・幸田露伴の死去にともないその思い出を書くことから筆を執るようになった。1947年のことである。作家として自立したのは1949年、「中央公論」に連載された「みそっかす」であり、この年、同じ中央公論社から出した『父―その死―』が最初の著作。全集の刊行開始は先述のとおり1958年だからずいぶん早い。
中央公論社による月報の「編纂だより」にはこうある(新字新かなに改める)。
「現代の文学のみならず、戦後の社会に必要にして十分な条件を備えた知性美の典型、幸田文というひとの出現は、日本の、そして日本の女性の明るい未来を予見せしめるものであります」
ずいぶん調子は高く、背後にファンファーレが聞こえそうだ。たしかに、たとえば1956年には「婦人公論」で「おとうと」連載が開始され、『黒い裾』(中央公論社)で読売文学賞、『流れる』(新潮社)で芸術祭文部大臣賞と新潮社文学賞を受賞するなど活動は華々しい。この年、すでに52歳になっていた。月報表紙の写真は、1957年に国際観光ホテルで読売文学賞・新潮文学賞・芸術院賞の受賞を祝う会場で撮影された。大きな花束を持ち和服でほほ笑む幸田文の後ろにまだ若き娘の玉子がいる。彼女もまた、母親を追憶する文章を書くことで文筆業に手を染める。その娘もまた……。
中央公論社は父・露伴が深く付き合いのある版元であった。力こぶの入るのも無理ないかもしれない。その「力こぶ」を私は全集の浦野理一が染織した本体の布に見る。67年も前の布だが、堅牢な函に守られ状態は驚くほどいい。変色やシミもなく、触ると凸凹した布の触感が手の平に伝わってくる。この手触りが、読書中も本体の重みとともに時間を支えていく。読書は視力と知力だけの力学ではない。手にかかる力もまた読書の一部であろう。
全集の部数がどれほどのものか確かめられないが、布は機械ではなく手織だったから、毎月1回の配本だとおそらく相当前から準備されたかと思われる。現在の出版状況ではとうてい真似ようもない、ほとんど工芸品に近い書籍である。
映画で『流れる』に出演した山田五十鈴は全集に一文を寄せる。
「今度出る『幸田文全集』も、箱は紺染、表紙は手織木綿の布装と聞きました。手織木綿の感触と美しさを、また紺の色を、この世のうちで最上の物とし、日常親しんでいる私にとって何とうれしいことでしょう」
ここに付け加える言葉はない。
(写真は全て筆者撮影)
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価格:1,980 円(税込)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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