岡崎 武志
第40回 ステッキ小説としての『彼岸過迄』(前編)
今年4月半ばにステッキを1本買った。高齢者の歩行補助用のT型ではなく、木製丸型柄の古風なステッキである。きっかけは故・安西水丸が雑誌の写真入り記事で、ステッキをついていた。べつに脚や膝が悪いわけじゃない。ファッションとして手にしていたのである。それを見て真似したくなった。なんでもそうだが、高いのから安いのまでピンキリで、私は高級男子洋品店へ行く勇気がなく、めったに侵入しないアマゾンのネット通販で入手した。送料ふくめ1450円だった。いつも外出時に使うということはなく、電車に乗って街歩きをするときなどに使った。使うとこれはじつに重宝をした。当たり前だが、歩行補助としてステッキは大いに役立つ。3本目の足として歩くのが楽になる。60半ばを越えた頃から、長い階段は眼がくらみ、恐怖心を覚えるようになったが、ステッキは「転ばぬ先の杖」そのものとして有効だ。
誤算は、いつも手にしているわけではないから、店へ入った時など出店時に置き忘れること(「お客さん、ステッキお忘れですよ」と何度か店の人に言われた)。また、正直言えば、ステッキをついていれば、空席のない電車で席を譲ってもらえるかもしれないとも目算したのだが、これは過去に1度だけ親切に出会ったのみ。まあ、考えが甘いのだ。
そこで夏目漱石の「彼岸過迄」がせりあがってきた。漱石後期の長編で1912年1月から「朝日新聞」紙上に連載、4月に完結し、同年春陽堂(!)から刊行された。長編の作品リストでは「門」と「行人」に挟まれて、重要な位置にある作だが、なぜか昔から人気がない。論じられる頻度から行っても「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」「それから」「こころ」「明暗」と比べると分が悪い。知人(たいてい本好き)と漱石の話題になっても、まずこの作品が挙がることはない。女性編集者で一人、「わたし、卒論が『彼岸過迄』なんです」という例があった。
大岡昇平も『小説家夏目漱石』(筑摩書房)という漱石論集の「『彼岸過迄』をめぐって」という評論の冒頭で、「これは漱石の作品の中で、あまり注目されない作品」だとしている。「はじめの推理小説めいた部分などは、推理小説としてもおもしろくないというふうに書かれている文庫の解説もある」ともある。
代表作の中で不人気なのは無理もないと思えるのが、構成上、難があるからだ。メインのテーマは「誠実だが行動力のない内向的性格の須永と、純粋な感情を持ち恐れるところのなく行動する彼の従妹の千代子」(新潮文庫カバー解説)の恋愛問題である。消極的な男と積極的な女という組み合わせは「草枕」「虞美人草」「三四郎」など繰り返し使われた漱石文学の主要なテーマであった。「彼岸過迄」もその一変種で、須永の「内向」ぶりにちょっといらいらさせられる。下品に言えば、早く千代子の唇を奪っちゃえよ、ということだ。もちろん須永に「出生の秘密」という深刻な問題が見え隠れすることを無視しているわけではない。
前半と後半で切り裂かれた小説
「構成上、難がある」と言ったのは、この小説で須永と千代子の恋愛問題が本格的に語られるのは、章立てで言えば「須永の話」以降で、もう物語は半分以上進んでしまっている。それまでの「風呂の後」「停留所」「報告」「雨の降る日」をリードするのは須永の友人である田川敬太郎である。須永は「須永の話」の前より登場するが遠景に過ぎない。そしてそのつなぎがどうもうまくいっていない気がする。
先に大岡昇平が紹介した「はじめの推理小説めいた部分」がおもしろくないとする文庫解説には私は反対で、むしろ前半部のほうがおもしろいと思うのだ。漱石的主題でいえば、圧倒的に「須永の話」以降が本領だろうが、私は退屈する。
あるいは私の読みが浅いのかもしれない。ただ、ここには「三四郎」「それから」「門」に流れる太い物語の潮流が感じられない。途中から2本の川が合流し、しかも川の流れは須永の内面に終始し、弱まっているのではないか。「彼岸過迄」の不人気は、そんなところに起因しているだろう。
本編の巻頭、漱石は「彼岸過迄に就て」として前書きにあたる文章を書いている。1911年8月に「朝日新聞」で小説の連載を始めるところ、「大患後の身体を打通しに使う」のを心配され断念した。「大患」とは通称「修善寺の大患」と言われる、胃潰瘍の療養のため修善寺温泉で療養をしたことを指す。その際、病状が悪化、大量の吐血で危篤状態となった。30分ほど「彼岸」へ行っていた。毎年、律儀に朝日新聞に連載した長編小説がこの時途切れた。その期間、約1年半に及んだ。社員として棒給を得る身として、そのことを漱石は気に病んだと思われる。
ようやく1912年元旦から連載を再開できたことを「長い間抑えつけられたものが伸びる時の楽よりは、脊中に脊負わされた義務を片附る時機が来たという意味で先何よりも嬉しかった」と書く。1月元旦始まりで、4月末に終えることからタイトルを「彼岸過迄」としたというから安直と言えば安直だ。その上で「久し振りだから成るべく面白いものを書かなければ済まないという気がいくらかある」とまで言うのだが、それほど「面白いもの」になったかどうか。
そこで作品論として「彼岸過迄」を読むことはすっぱりあきらめる。私には敬太郎編の前半に魅力を感じるし、それを「ステッキ小説」として読みたいと思うのである。ようやく私がステッキを買った話につながってきた。変な話だが、ステッキを持つと「ステッキ」という言葉が文章から浮き上がってくる。
「彼岸過迄」を読むにあたって、どうやら私が過去にページをめくったらしい3種の文庫が見つかった。新潮文庫、旺文社文庫、集英社文庫である。岩波文庫は部屋から見つからなかった。今回、本文文字が大きくて、一番新しい(2014年2月25日第1刷)版の集英社文庫で読み返し、これをテキストとする。解説は三浦雅士、鑑賞は島田雅彦とこちらも新しい顔ぶれ。ちなみに新潮文庫解説は柄谷行人、旺文社文庫解説は高田瑞穂である。
以下、次号へ。
(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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