マンガ家、画家、エッセイストのヤマザキマリは、十四歳のとき一人でヨーロッパを旅した。というより母親に一人旅をさせられた。当時住んでいた札幌からパリへ飛び、交響楽団のヴィオラ奏者である母親の、フランスとドイツの友人たちの家を訪ねてまわりなさい、といわれた。期間は一ヵ月。最初のパリの空港では、やはり母親の友人が出迎えてくれたが、その先は単身である。
旅の終りにブリュッセルから帰国する飛行機に乗るため、電車でパリに向かった。その車中で隣席の見知らぬ老人が声をかけてきた。イタリア人だというその男性は、訛りの強い英語で、ブリュッセルの駅構内であなたを見かけて以来、ずっと心配していた、どこで話しかけようか気をもんでいた、といった。十四歳よりもっと若く見えたマリを、幼い家出娘だと思っていたのである。
マリの旅の事情を知ったマルコというそのイタリアの老人は、パリの駅で別れるとき、日本に帰ったら、無事に着いたのひとことだけでいいから、君のお母さんから私に知らせてもらいたい、といった。
母親は、娘の無事の帰国と感謝を伝える簡単な英文の手紙を老人に送った。普通はそれで縁は切れるのだが、そうはならなかった。北イタリアで陶芸工場を営んでいるというマルコとヤマザキマリの母親は、なぜかペンフレンドになった。
マリが十七歳で北海道の高校をやめてイタリアへ渡ったのも母親の勧めだった。そうしてマルコのアドバイスで、マリはフィレンツェの国立アカデミア美術学院に入学し、その街で十一年の長きを過ごすことになった。
街にあふれた外国人観光客はフィレンツェのよいところを見て満足し、その思い出を胸に帰国する。しかしマリにはそれは許されなかった。やがて街になじんだ彼女には多くの友人ができた。そのうちの一人、若い詩人と恋人同士となり、波乱に富んだ関係をつづけたが、彼との間に生まれた男の子が二歳になったとき、別れを決意して日本に帰った。一九九五年、二十九歳であった。以上のような経緯は、彼女の自伝的エッセイ『扉の向う側』(マガジンハウス)から読みとった。
その後、子連れで再び渡ったイタリアで結婚した相手はマルコの縁戚の青年で年下、中東の歴史の専門家だった。式は彼の留学先であったカイロであげた。その後、家族三人でシリアのダマスクスに行き、さらにポルトガルのリスボンに七年住んだあと、夫の留学先となったシカゴに行った。夫に二年遅れたのは、息子が小学校を卒業するまで居心地のよいリスボンにとどまったからである。夫が留学先にシカゴ大学を選んだのも、夫の母親がフランスからイタリアへ向かう機中で知りあったアメリカ人教師に強く勧められた結果だった。
一九九〇年代のはじめ頃、ヤマザキマリは日本からイタリアへ向かう機中で日本人のサトウという名前の夫妻と隣り合わせ、親しくなった。夫の方は日本のマンガ編集者であった。すでにマリはマンガ家としての仕事を始めていたが、そのサトウ君は私と谷口ジローが共作するマンガの、初期の担当編集者であった。私は七〇年代からときどきマンガのシナリオを書き、それをマンガ家の谷口ジローが絵にするという分業で共作していたのである。
その後もマリは日本に帰省した際、サトウ夫妻と何度か会ったというが、やがて途切れた。しかし二〇一〇年代初め、イタリアのルッカという街で開かれたマンガの祭典で、ほとんど二十年ぶりにサトウ君と再会した。その祭典のメイン・ゲストは谷口ジローで、サトウ君は谷口とマリを引き合わせてくれた。仕事熱心で親切な谷口とマリは、その後も日本で親しんだ。
その谷口と私の共同の仕事は一九七七年に始まった。絵のうまいマンガ家がいるのだが、オリジナルだとストーリーが暗くなる、力を貸してくれないか、と編集者に頼まれたのがきっかけだった。谷口が二十九歳、私が二十七歳のときである。以来、二十年ほど間歇的ではあったが、いっしょに仕事をした。しかしやがて私はマンガから離れ、他の多くの作家たちから自作のマンガ化を望まれた谷口も量産はできなかった。そのうえ彼の場合、海外版権が日本での画稿料を上回るという状態になっていた。
日本マンガの人気はヨーロッパ、とくにフランスで高い。NHKテレビの「ドキュメント72時間」でパリ13区の日本マンガ専門店を取材していたが、そこで読まれていた日本マンガは右開き、手書きの効果音やオノマトペはすべて日本語のままだった。
その店の客の青年は、谷口ジローが夢枕獏の小説をマンガ化した『神々の山嶺』を読んで自分は登山家になったのだといい、日本ではそれほど人気のなかったタニグチを高く評価したのは自分をはじめとするフランスの読者だ、と自慢げにつづけた。それは、小津安二郎監督が七〇年代にフランスで「発見」され、その結果世界的巨匠になったのだという言い方と瓜二つだった。 谷口ジローは二〇一七年二月、六十九歳で亡くなったが、「ル・モンド」電子版の訃報は、日本の新聞の五倍以上の長文だった。私がサトウ夫妻や谷口ジローとヤマザキマリの交友について聞いたのは、谷口没後のことだった。
五十歳代となったヤマザキマリは、おもに日本で仕事をしているが、彼女の人生の転機は、十代のとき以来隣席の乗客によって呼び込まれた。
これからもヤマザキマリのような才能は出現するだろう。だが、そこに隣席の乗客がかかわる可能性はきわめて少ないと思われる。現在、人が機中・車中で過ごす時間は、座席の背のスクリーンに映される映画やスマホの画面に費やされ、見知らぬ人と話して親しむ機会は大いに減じたからである。無理に接近しようとすれば、あやしい人物と思われる。時は過ぎた。人間関係のありかたもうつろった。
文/関川 夏央(せきかわ・なつお)
作家。1949年、新潟県生まれ。
代表作『海峡を越えたホームラン』(双葉社/第7回講談社ノンフィクション賞)、『「坊っちゃん」の時代』谷口ジローと共作(双葉社/第2回手塚治虫文化賞)、『白樺たちの大正』(文藝春秋)、『家族の昭和』(新潮社)などの業績によって司馬遼太郎賞、ほか著書多数。近著に『人間晩年図巻』シリーズ(岩波書店)。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター、装丁デザイナー、エッセイスト。1947年、東京都生まれ。
近著に『仙人の桃』(中央公論新社)、『老後は上機嫌』池田清彦と共著(ちくま新書)など。