
岡崎 武志
第45回 京都、高円寺で中原中也の過去とすれちがっていた
2024年の歳末、必要があって詩歌のジャンルを集めた本棚を触っていると、古い文庫本が目に留まった。河上徹太郎編『中原中也詩集』(角川文庫)は昭和48年に購入したことが最終ページの書きこみでわかる。小さな鳩のハンコは消しゴムを彫った自作。買った文庫によく捺していた。懐かしい。私は16歳。高校2年生だった。中原は谷川俊太郎や宮沢賢治、中野重治などと並んで、高校時代に親しんだ詩人だ。あちこちラインを引いたり、気に入ったフレーズを書き出したり、読んだ痕跡が残っている。こういう本は処分できません。
その後、大学へ行くかどうか迷いながら試験だけは受けて落ち続けて、2浪して立命館大学のⅡ部にもぐりこみ京都に下宿する。このあたりのことは、これまでずいぶんあちこちに書いているのですっ飛ばすが、同じクラスで仲良くなった友人が京都に実家が有り、数度、彼の家を訪ねたことがある。1977年のことだ。河原町今出川交差点を西へ。寺町通を少し下がった一画だった。立命館大学がまだ広小路にあった頃(翌年、衣笠へ)で、すぐのところだ。東西の石薬師通りに「なかじま食堂」という学生向けの定食屋があって、ここでよく日替わり定食を食べた。今出川沿いの中古レコード店でも、レンタルレコードのお下がりの廉価盤など、よく買ったものだった。
一軒家の2階、南側の石薬師通りに面した彼の勉強部屋で、学校のことなどを話していると、急に「そう言うたら、すぐ近くに中原中也が住んでいたらしい」と言うではないか。山口生まれの中也が、上京する前の数年、立命館中学の学生として京都に住み、運命の女・長谷川泰子と出会う、ぐらいの簡単な知識は『中原中也詩集』の年譜で知っていたが、それがまさか目の前にあるとは。ただちに友人のガイドで下宿を訪ねたが、かなり老朽化した家屋であった。それでもけっこう感動したのだった。
年譜で確かめると大正12(1923)年4月に京都へ。何度か転居し、上京する大正14(1925)年の2月下旬「寺町今出川一条目下ル中筋角山本義雄方へ転居」とある記述が、まさしくそこだった。しかしまさか、中也が住んだそのままではあるまいと思ったが、のち大岡昇平の評伝『中原中也』(元本はなく講談社文芸文庫版を参照)を読むとこの「家屋は現存する」とあった。私が学生時代に見たのも、まちがいなくその「現物」だ。大岡によると「河原町と寺町の間の筋を、今出川通から十間ばかり下った西南の角の、北向きの二階家で、関西風に板を縦に張った東側は、二階に二尺角の掃き出し窓を一つ持ってる」と細かい。
中也の京都生活は2年に満たぬ短い期間だったが、長谷川泰子と出会い同棲し、先輩の詩人・富永太郎を知り、古本屋で買った髙橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読み多大な影響を受けた。山口から直接東京へ行かず、京都に立ち寄ったことは無駄ではなかった。大げさに言えば、運命の歯車が京都から動き出した。その約半世紀後に若き私も京都にいて、中原中也の詩を読んでいたのだ。
印象的なフレーズと高い朗誦性
中也の詩は抒情詩だと思うが、そこに特異な言葉遣いや印象的なフレーズ、そして高い朗誦性があった。いくつかは、部分ではあるが私も当時、暗誦していた。よく知られる「サーカス」もそれらの条件を備えた名詩だ。(注・引用は字詰めなど少し手を加えた)
「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました//幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました」
このあと、サーカスのブランコが揺れるのを「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と表現する。一読、頭から去り難い強力なイメージとオノマトペだ。「都会の夏の夜」の「ただもうラアラア唱つてゆくのだ」も同様で、人懐っこく耳朶を震わせる。フォーク歌手の友川かずきが、中也を深く愛し、中也の詩に曲をつけたアルバムを出しているが、たしかにそのまま曲を乗せて歌えるような作品がいくつもある。高校時代、自作の曲を作っていた私もいくつか中也の詩を歌にした。海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」を聴いた時もすぐ、「これは中也の詩(の一部分)だ」と気づいた。原詩は「思へば遠く来たもんだ」(「頑是ない歌」)。
「ぽけつとに手を突込んで/路次を抜け、波止場に出てて/今日の日の魂に合ふ/布切屑をでも探して来よう。(「秋の一日」)から、はっぴいえんどの「風をあつめて」までの距離は近い。

そして高円寺へ
思いがけず中也の青春の地が現存することを知り、その直後に京都の古本屋で買ったのが『中原中也全集 第二巻』(創元社・1951)。この巻に「日記」が収録されていて、ひょっとしたら「寺町今出川下ル」の下宿の記述がないかと期待したが、昭和2年(1927)からの始まりだった。しかも昭和2年の記述はほぼ読書録と哲学的な感想に終始するだけで、東京でいかに暮らしたかがさっぱりわからない。ようやく交友や外出のことが日記に現れるのは、昭和2年ののち欠落があって9年になってからだ。昭和12年10月22日の死まであと3年ほどしか残されていない。
大正14年3月に長谷川泰子を伴って上京した中也は、最初、現在の新宿区早稲田に下宿した。翌月には中野の新井薬師近くへ。5月には現在の杉並区高円寺へ移転とめまぐるしい。高円寺に住んだのは、上京して知り合った小林秀雄が高円寺(当時は馬(ま)橋(ばし))にいたからだろう。そこで泰子と小林が愛し合うようになり、日本現代文学史上、有名な泥沼の三角関係事件が起きるが、ここでは触れない。
私は中也がかつて高円寺に住んでいたことを知らず、直線で測れば700メートルほど東、環七を越えたところに住んでいた。西暦で言えば1992年から1年半ほどのことである。
中也と泰子の高円寺での巣は、駅前からパル商店街を南へ下り、桃園川緑道を越えてすぐ、西側あたりにあったと推測される。桃園川は中野から阿佐ヶ谷へ東西を流れる川であったが、戦後に都市化が進み、1967年に暗渠(あんきょ)となった。現在は整備された緑地帯で、車が通らぬ人道となっており、私も高円寺時代、パル商店街へ向かうのによくここを歩いたものだ。
パル商店街には当時、4~5軒の古本屋があり、喫茶店や定食屋があったり、30代半ばでありながらまるで青春期が戻ったように街をうろついていた。中也がいた推定の場所近くには「大石書店」という新しめの本を安価で売る優良な古本屋があり、よく通ったが今もある。パル商店街で残るのはこの「大石書店」ぐらい。しかし、ここで本を漁っていた30年ほど前は、まさか中也が近くに住んでいたとは気づかなかったのである。
今回、本稿を書くため、ひさしぶりに中也の詩をいくつか読んだ。ちょっと甘いがいい詩がたくさんある。京都と高円寺と思いがけなく中也の影を踏むことになって親しみが増した。
あちこち線を引いた角川文庫の、こんなところにも線がある。
「生きてゆくのであらうけど/遠く経て来た日や夜の/あんまりこんなにこひしゆては/なんだか自信が持てないよ」
「思へば遠く来たもんだ」で始まる「頑是ない歌」の一節だ。あと2年で70歳となる今、つくづく「思へば遠く来たもんだ」と思わざるをえない。

(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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