岡崎 武志

第48回 女性のような名を持つ作家・和田芳恵(上)

 和田芳恵(1906~77)について書くつもりであるが、どれだけ一般的に知名度があるものか自信がない。年下(たいていそうなのだが)の知人数名にリサーチしたが、名のみを知るのが1名。「それ、女性ですか?」と聞き返した60代初めが1名。無理もない。「芳恵」とくれば「柏原芳恵」の世代で、性別を男性に変換するのが困難である。とくに樋口一葉研究(全集の編集を含む)が、和田の名を知らしめた最初の仕事だから、名を知っていても性別の混乱は起きた。
 筑摩書房で樋口一葉全集が企画された1952年冬、編集長の土井一正に編纂者の一人として和田を推薦したのが、当時同社の編集顧問をしていた中村光夫。土井は直木賞候補者(のち受賞)として名を知り、麻布森元町にある和田の家を訪ねた。「三畳の板の間に、古ぼけた敷物を敷いて書きものをしている和田の、しょぼくれた顔を見て、『和田さんのことを、女性かと勘ちがいしていました、』と言った」(吉田時善『こおろぎの神話 和田芳恵私抄』新潮社)。この時、46歳だったが、おそらく「しょぼくれた顔」は年齢より老けてみえたのではないか。
 しかし、和田の不幸はこんなものじゃない。ひょっとしたら、書かれた作品よりも、その生涯のほうがドラマチックかもしれないのである。そのあたりのことは後述するとして、没後半世紀近く目だった再評価の動きもなく、一葉に関する著作が角川文庫クラシックス、『塵の中』始め、代表作と随筆が講談社文芸文庫から4冊出されている。後者はそのうち何冊が現在流通しているか。私もこれまでに本好きの友人たちとの会話で「和田芳恵はいいよ」などと、その名を出したことはないと思う。
 きっかけはやはり古本であった。昨年になるが、某日某所、古本屋の店頭均一の棚に『自選 和田芳恵短篇小説全集』(河出書房新社)を見つけ、これが100円かとため息が出るような思いで引き抜いた。1976年刊の函入り大型本(サイズは四六判)で、本体474ページ、函入りの厚みは4センチ以上ある。当時の定価は3900円。公務員初任給や週刊誌の値段から単純に換算すると、現在その3倍くらいになるはず。挟み込みの別冊もちゃんと付いており、完品の立派な本なのである。
 派手な書きこみや、函に大きな損傷があるわけではない。ただ白い函なので、全体に経年のくすみや汚れが目立つ。それにしても、である。これまで、こうした古書価のバランスが崩れた下落については幾度も書いてきたからくりかえさない。要するに需要がない、ということに尽きるのだ。日本芸術院賞に始まり、直木賞、読売文学賞、日本文学大賞、川端康成文学賞と受賞歴はそれなりに派手だったが、これらはいずれも50代に入ってから当たった光で、それまで長く暗いトンネルをくぐってきたような人生だった。
悲惨の2文字を背負い逃亡生活
 もっともコンパクトに、その陽のあたらない和田の坂道を紹介するのは、大村彦次郎『文士の生きかた』(ちくま新書)で、選ばれた文士13名の掉尾を飾るのが和田芳恵だ。私はこれで概略をつかみ、前出の吉田時善『こおろぎの神話』、和田の著作『雪女』(文藝春秋)所収の「自伝抄」で詳細を補った(短篇小説全集の別冊に自作年譜あり)。

 和田は明治39年3月30日に北海道胆振いぶりのくに山越郡長万部村で生まれた。戸籍上は4月6日、とある。芳恵は本名。一家は荒物雑貨商を営み、それなりに裕福だったようだが、父が組合費を使いこみ出奔。10代にして転落が始まる。働きながら勉学し、周囲の恩情も受けて上京、中央大学法学部予科に入学したのは1925年春。おそらくだが、この頃撮影した写真はあっても顔に笑みはなかったのではないか。和田の春は青くなかった。
 大学卒業後、新潮社へ入社。雑誌「日の出」の編集者となる。和田の前半生は編集者であり、樋口一葉に関する原稿の執筆はあるものの、戦後、新興の大地書房から創刊された「日本小説」という小説雑誌の編集長を務める。社長は本職が紙ブローカーでその片手間に出版社を興した。この出版社で同僚だったのが『こおろぎの神話』の著者・吉田時善。さすがにこの時代の背景についてはくわしい。ちなみに編集部にいた若き経理担当が長島静子。のち和田と結婚し泥船で荒波に漕ぎ出すような暗黒の時代を同伴することになる。
『こおろぎの神話』は、和田の死後、未亡人となった静子から詳細に聞き取りをした著作だった。「日本小説」時代の静子から見た和田は「そばで見ていると、わざわざ命を縮めるような動き方をする人ね、和田さんは。(中略)そのくせ、どこか、ずぼらなところがあって、何があっても、なんとかなるさと、たかをくくっているようにも見えるし、よく判らないわ、わたしには。」という人物だった。ところが、静子にしたって、それから和田が同時並行してつき合っていた女性たちもみな年下で情痴に耽るのだったが、不思議とこの老成した、金もなく冴えないような中年男に若い娘が惹かれていくのだった。それがあまりうらやましいとも思えない。また、そうした隠花植物のようなただれた関係について、後年、和田は手を変え品を変え飽くことなく書き続け、独自の世界を作り上げる。倫理道徳上の正しく明るい生活から文学は生れてこないのかと和田芳恵を読んでいてそう思うのだ。そのあたりは次回に。

 書き添えておくと、和田には糟糠の妻・照がいて、男女の子も儲けている。娘の方は詩人・吉岡実の夫人となる。照は寝たり起きたりの生活を2年続け、ここは昭和で言うと14年に33歳の若さで逝く。不運も不幸もあまりに続くと、慣れっこになるのか、和田と静子は昭和24年に最大の危機に陥る。そこから「長く暗いトンネル」生活に突入していく。
(続く)

(写真は全て筆者撮影)

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この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。