
岡崎 武志
第49回 女性のような名を持つ作家・和田芳恵(下)
和田芳恵という地味な作家の絶望的前半生について「暗いトンネル」と評した時期があると前回書いた。簡単に言えば、編集長兼発行人を務めた雑誌『日本小説』が失敗、昭和24年秋につぶした際、350万円もの借財を背負う。現在の1億円以上かと思われる。借金の相手はたちが悪く、身の危険を感じた和田は、親兄弟にも住所を明かさず逼塞する。そこについて行ったのが経理担当の静子で、すでに2人は男と女の関係にあった。「手に入れたメリケン粉でうどんの玉を作って貰い、醤油汁だけの素うどんを朝夕食べて、飢えを凌いだ」(大村彦次郎『文士の生き方』)。世間から身を隠してのどん底生活が続いた。しかもそんな崖っぷちにありながら、和田は他の女と肉体関係を結ぶのだった。そして昭和40年代後半に、その男女関係を小説にして花を咲かせる。まったく、男って生き物はどうしようもないわね、と現代の女性なら思うだろう。しかし、文学とはそうした泥沼から砂金を掘り当てるような仕事だ。和田は「自伝抄」(『雪女』所収)で「私は万年筆に死というインキを入れて、老いた男と若い女の情痴を多く書いた」と記す。和田の存在を知らしめた『接木の台』から何編か読んでみる。
「厄落し」は、ホテルの結婚式場の主任カメラマンを務め、大学でも写真を教える中年・松木小六が主人公。水商売上がりの妻を持つ身ながら、大学の教え子で写真スタジオの助手をする真喜子とできている。妻は真喜子の存在に感づき、夫の小六を責め立てる。小六は結局、妻を捨て、真喜子と所帯を持っていることが冒頭から分かる。和田の作品の多くが、こうして現在と過去を往還する構造を持ちながら、徹底して男と女の話なのだ。ほかに関心はないようだ。野球の投手で言えば、針の穴を通すコントロールといってもいい。
同工異曲の情痴小説
和田の一連の情痴小説は、愛人を持つというような安楽な立場にない男が若い女と深みにはまる。抑えがたい性欲が置かれた立場を越え、保つべき社会とのバランスを崩す。若い真喜子と初めてそうなる場面。
「小六が真喜子のからだを求めたとき、素直な頷きかたで、ただ、頤を引くような動作をした。真喜子の左の頬に、小指の先きで突いたほどの笑窪ができた。この笑窪は、緊張したときに現われる」
じつに観察が細かい。和田は性交渉の一部始終を報告することは避ける。読者の性への興味を満足させる気はない。その代わり、こうしたささいな女の動作や表情を張り詰めて描写することで、男女の関係がなんたるかを知らしめる。数多く女の肌に触れた実態が目に焼き付くような表現に現れるのだ。読者は、ひらがなで書く「おんな」を知ったような気になるだろう。「女が描けてない」は、ある時期まで文壇における男性作家への厳しい評価となった。新田次郎は人気作家だったが、評論家にそう言われ「おれは女を知らない」と苦悶した。それを聞いた新田夫人(藤原てい『流れる星は生きている』の作家)が「私も女ですけど」と言うと、新田は「おまえは女だったのか」と返した。
「靴をぬがせるとき」は、並木倉吉が海外文学の翻訳チームを作り、講師として私立大学で英語を教える。そこへ教え子の川奈郁子がせり上がるように登場し、当然のように関係を持つ。職業は違うが、「厄落し」と同工異曲だ。「接木の台」では、フリーの編集者の「私」が、若い日、助手として使ったかつての恋人・悠子のことを回想する。いずれも男には妻がいる。
「自伝抄」に自身でこう書く。
「若い娘に狂った老人が『風景』と『季刊藝術』にでてくるが、私を知っているなら、だれでも私と気づくように書いた。追いつめられているのだという実感を、私は決して薄めまいと思った」
これが「接木の台」と「厄落し」のことである。起こったこと自体は、週刊誌ネタにもならぬような平板な出来事で、普通ならエロ描写をたっぷり費やさないと小説にはなりにくいのだが、和田は「追いつめられているのだという実感」を肌身をもって書く事で、読者の共感をさそった。凡手ではない。
「靴をぬがせるとき」はタイトルに重さを乗せている。倉吉が教え子の郁子とそうなる時、妻の久美子と結婚前に体を求めようとして拒まれる過去を挟み込んで、注釈なしに現在へと飛ぶ。読者を混乱させかねない手法だが、情欲が過去と現在を糊付けする。事務所で横になった郁子の足元へ回り、倉吉は靴をぬがせようとする。片方の靴をぬがしたとき、郁子は「それだけはやめて」と呟く。その声に「倉吉の背筋を残忍な戦慄がはしった」。以下、ラストの数行を引く。
「上に重ねた脚を、倉吉は思いっきり持ちあげた。長い靴下の切れ目に青い肌が露出していて、腰に食い込んだ白いパンティが見えた。
倉吉は、持ちあげた足から靴をとると、けものくさい空気が、鼻の先に流れた。倉吉は、けものになっていた」
視覚的には「白いパンティ」が情欲の発火点のようだが、和田はあくまで「靴をぬがせるとき」に力点を置き、タイトルに選んだ。
『接木の台』に収めた8編は、発表年代で言えば、昭和47年から49年。著者は60代後半に突入していた。現在でも60代後半は高齢者(私もそうだ)だが、50年前には「老い」の影がさらに濃かったであろう。世阿弥の「老木の花」ではないが、陽の当たらぬ裏路地を歩いていた作家が、新しいインキでつかんだものは、それまでになかった老年の「性」を華やがせる世界であった。
老いた宮大工が、最後の仕事として、商売とは関係なく作りたいから作ったという細工を思わせる。だからといって、誰にでも和田芳恵を読めと推薦するにはためらいがある。そのうまさを味わうには、読む方にも、ある程度の小説読みとしてのキャリアと、人生経験が必要な気がする。老若男女、どの階層のどんな立場の人が読んでも、ほぼ等しく満足が得られる小説があるのは当然ながら、そうではない小説があってもいい気がするのだ。和田芳恵は読者を選ぶ。
集英社文庫について

ところで、今回私は『自選 和田芳恵短篇小説全集』という大著を手に入れながら、テキストとして読むのに使ったのは集英社文庫版『接木の台』だった。表題単行本に、その後出た『抱寝』(河出書房新社)の2冊を収録し、昭和54年に刊行。奥付を見ると「1979年12月2日」と読了日が私の字で記されている。私は22歳。はたして和田芳恵の世界が理解できただろうか。解説は野口冨士男。これはベストの人選だ。

和田の『接木の台』収録の2冊は、いずれも河出書房新社からの出版であったが、文庫を持たない(その昔には河出文庫は存在した)版元だったので集英社が引き受けた。たしかに先の顔ぶれなら、和田芳恵が入ってもおかしくない。
それが今や……とぼやいてみても、何も始まらないし、何も変わらない。ただ、和田芳恵が50年以上前に文庫で読めたことを私は今、しみじみと喜んでいる。

(写真は全て筆者撮影)
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本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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