岡崎 武志

第54回 世界は一冊の本

 今年5月のちくま文庫に長田弘の詩集『世界は一冊の本』が入った。その解説を私が担当した。文庫の解説はひさしぶり。くわしくは解説を読んでいただきたいが、読書論や本のエッセイを多数世に送る著者らしいテーマの詩集である。表題作となる1編も「本を読もう。もっと本を読もう。もっともっと本を読もう。」で始まる読書のすすめだ。その一節に「人生という本を、人は胸に抱いている。一個の人間は一冊の本なのだ。」とある。私はここに感動した。
 つまり、デジタル端末やコピーされた紙で読むことを読書とは考えないという立場だ。印刷され束となり、デザインされた表紙をつけた「本」と向き合うことを読書と呼ぶ。反論はいくつも考えられるが、私はそれを無視してこの流儀で読書人生を終えたいと思っている。
 今回ご紹介する邱永漢きゅうえいかん『象牙の箸』は、著者や内容よりもまず「一冊の本」と向き合うために購入した。以下、例によって外堀から埋めていく。
 とにかく、その武井武雄による造本装幀のすばらしさに目を奪われた。昭和35年中央公論社刊。四六判。堅牢な函つきで本体はハードカバー。出版社名と定価の表示以外はすべて武井の書き文字とデザインからなる。写真ではややわかりにくいが、本体表紙のタイトルは金の箔押し。つまり浅くだが文字部分が凹んでいる。ほとんど工芸品だ。



 武井武雄は童画家として知られる以上に、「武井武雄刊本」と呼ばれる特装限定の豆本造りで出版界に足跡を残した。本を美術品として扱う姿勢と考えは著書『本とその周辺』(中公文庫)に著されている。カバーはもちろん自装。
 私が今回、池の周りを巡るように、本文をなかなか読まず函から出したりしまったりしたことで気づいたことをいくつか書く。あとでちゃんと中身と著者についても触れます。なお価格は280円。昭和35年の公務員初任給は1万800円。週刊誌30円。これで換算すれば物価上昇率を20倍として今なら5600円だがちょい高すぎる。コーヒー60円で映画の洋画封切り入館料が200円。そこから10倍として、2800円。いや、これぐらいはするよ、という豪華な本だ。

奥付を眺めていくつかのこと

 奥付を見ると検印紙があり、いやそれより驚くのは出版データだ。「昭和三十五年」以下、振替番号の「三四番」まで活字が真四角に組まれている(写真参照)。至難の業ではないか。最終行の電話番号の局と番の間に半角空きがあり、これで調整したのか。いずれにせよ、たしかに見た眼は整然としているが、不規則な文字数をタテヨコ揃えるのには難しいパズルを解くような苦心があるはずだ。
 私が知るかぎり、このようなことに情熱を注いだのは中央公論社(現・中央公論新社)だけ。普通は各情報を1行とし独立させて組む。その方が読みやすい。いくつか手持ちの本を20冊ほど調べてみたが、このように字数を揃えた組み方は、ほかに吉田健一『瓦礫の中』(昭和45年)(写真右)だけで、これも中央公論社の出版物だ。現在の同社ではこんな手数のかかる奥付の組み方はしていない。この謎は解きようもなく宿題とする。
 それと『象牙の箸』奥付で「!」と思ったのが、「製函者加藤三吉」と外函製作者の名を記していることだ。これはきわめて珍しい。通常は、版元以外に発行者、印刷所、製本所まで。これも函入りの本を次々と当たってみたが、吉田健一『やく詩集 葡萄酒の色』(小澤書店)奥付に「製函所 日東工業」の記載を発見。吉田健一続きなのは、たまたま彼の著作が集まった棚を点検したからだ。
『象牙の箸』の函は堅牢にして軽く、何より本体を抜き出す際にほとんど負担がかからない。背を下にして、少し振るとするする滑り落ちてくる。じつは本体と函の関係において、この加減は難しく、少し遊びがないと本体を抜くのに苦労することになる。あるいは緩いと、すぐに抜け出てしまう。その点、『象牙の箸』はパーフェクト。
 これをお読みの方々に、「どうです、手に持って、函から本体を出してみてください」と言いたいぐらい。
 さあそこで、「製函者加藤三吉」とは何者ぞ、という話になってきた。鼻の頭をこすると(ネット検索しただけだ)、東京都板橋区に「加藤製函所」という会社を発見。加藤三吉は昭和35年時点での代表者だろう。出かけていって確かめたかったが、2020年に廃業していた。読売新聞には廃業を伝える記事が掲載されたという。
 会社はないが、ホームページが残っていた。「1部から100万部まで誠意をこめて対応します」とある。なんと創業は1924年。創業者は加藤政次郎。およそ100年続いた会社であった。もっと多くのことを知りたい人は、ホームページを当たってもらうとして、掲載された1枚の写真が目を引く。
 昭和2年頃皇居前、とキャプション。四輪トラックの荷台(加藤製函所と社名)にたくさんの荷物が山と積まれている。積み荷は改造社の現代日本文学全集。いわゆる「円本」だ。加藤製函所はオーダーメイドの丁寧な仕事で信用を得て、日本を代表する出版社から次々と仕事を請け負うことになる。岩波書店の『広辞苑』も同社だったようだ。以前、本連載で紹介した幸田文全集(中央公論社)も「加藤製函」と奥付に。
 車の周りには法被姿、あるいは和服の従業員らしき人たちが立っている。小僧もいる。昭和初年は円本による出版バブルのあった時代で、製函所も大忙しだったろう。
 私が1990年代後半ぐらいから、「サンデー毎日」の書評欄を執筆するようになって、約30年ぐらい、編集部に届く各出版社からの新刊の山に目を通していた。この30年のもっとも大きな変化の一つは、函入りの本が極端に減少したことだ。前述のとおり、製函には手作業に頼る部分が大きくコストがかさむ。出版不況の進行により、函入りの本は敬遠されるようになっていた。
 ……などと言っている場合ではない。邱永漢について書くスペースがなくなってきた。よって、以下次回へ。

(写真は全て筆者撮影)

≪当連載が本になりました!≫


『ふくらむ読書』(春陽堂書店)岡崎武志・著
「本を読む楽しみって何だろう」
『オカタケのふくらむ読書』掲載作品に加え、前連載『岡崎武志的LIFE オカタケな日々』から「読書」にまつわる章をPICK UPして書籍化!
1冊の本からどんどん世界をふくらませます。
本のサイズ:四六判/並製/208P
発行日:2024/5/28
ISBN:978-4-394-90484-7
価格:2,200 円(税込)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。