第二回 二代目中村吉右衛門 ②
 十八代勘三郎にとって、子役時代からの目標は「吉右衛門兄ちゃん」だった。それがいつの間にか疎遠になり、共演が見られなくなった。
 一因は、あくまで伝統芸としての格式ある歌舞伎を守り抜こうとする播磨屋と、若い観客を呼び込むためには新しい趣向が必要という中村屋の、意見の対立があったかも知れない。
 その雪解けとなったのは、中村屋の長男勘九郎の結婚披露宴の夜のことで、勘三郎さんが言う。
「お開きになって、そのまま帰る人もあるけど、僕らに挨拶しようとする人は、行列して並んでるんだよ、ちょっと見たら、吉右衛門さんがこっち側に並んでんの。困ったなあ、何か言わなきゃ、と思って、『これに何か教えてやってくださいよ』って。そしたら息子に向かって『いつでも……』って言ってくれたの」
 それはすぐに実現して、翌年一月の浅草公会堂若手公演『奥州安達原袖萩祭文』の安倍貞任役を指導することになる。私は初日前の舞台稽古を浅草まで見に行ったが、吉右衛門さんが張り切って客席から舞台に上がって道具の位置を直したり、台詞廻しを注意したりしていて、そのうち客席にいる私に気づくと笑いながら近寄って来て、「髪型、お変えになりましたか」なんて……。いかにも武骨な男が無理をしてる感じの挨拶をしてくださるのだった。

 吉右衛門の幡随院長兵衛、勘三郎の白井権八で「鈴ヶ森」。夢の共演が実現したのは、勘三郎が亡くなる年の二月、新橋演舞場の夜の部。両優の心をこめた丁寧な芝居運びには、その時ようやくにして雪解けを迎えた喜びが見て取れた。
 しかもこの二月は中村勘太郎改め六代目勘九郎襲名披露興行だったので、昼の部の披露狂言『土蜘』の配役が今思っても豪華すぎる夢の顔合せだった。
 まず主役の土蜘は新・勘九郎、源頼光が三津五郎、侍女胡蝶が福助、平井保昌が橋之助(現・芝翫)。そこまではまあ順当として、間狂言に出る番卒三人が前代未聞の大御馳走。藤内が勘三郎、次郎が仁左衛門で、太郎には何と吉右衛門がつきあったのだった。
 三人は機嫌よく手を取り合い、足を踏み鳴らし、顔を見合わせ、とてもとても楽しそうで、でも見ているお客はもっと幸せ。口をあんぐり開けてうなずきながら、この芝居を観られた喜びに酔ったのだった。
 これから吉右衛門・勘三郎の顔合せでどんな名舞台が観られるだろうとみんなが想像を楽しんだのもつかの間の夢と消えて、その九年後には吉右衛門も鬼籍の人となってしまうのだった。
 ところで、私は播磨屋の弁慶、大星、熊谷、盛綱、と当り役の数々が思い浮かぶ中で、今一番又その舞台姿を観たいと思うのは『大石最後の一日』(真山青果・作)の大石内蔵助。
 細川家お預けの身となっている大名以下十七人の浪士の中に、磯貝十郎左衛門がいる。お小姓姿に身をやつして細川家にいる恋仲のおみのは、浪士切腹の日にひと足先に自害。それを知った大石が磯貝を呼びにやる時の、悲痛で、切迫して、怒声とも聞える「急ぎます‼」の台詞の声が今も私の耳の底から離れない。
 そして最後に肩の重荷をおろし、ほっと力を抜いて、悠揚として花道を歩み去る大石の姿が、名優吉右衛門との別れのイメージに重なってくる。


プロフィール
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。