
篠田正浩監督とは、対面していてもやや斜め上を向いて、はにかみながらも熱弁を振るうのだが、その時右の上歯と犬歯の間に細かな泡がたまるのを眺めているのが好きだった。
知遇を得てからずっとたったある日、監督のその透きっ歯が可愛い、と言ったことがある。それからまたずっとたって、ある時監督が笑いながらこう言った。
「歯医者に行ってここを義歯にする時、この上の透きっ歯はこのままにして下さいね、前にこれが可愛いと言われたから、と言ったら、奥様にですか? って。いやぁ違いますよ、僕にだって奥さんしかいないんじゃ可哀そうでしょう、ってね」
男の人って、どんなに頭がよくて才能のある人でも、ちょっと見栄っぱりで無邪気なんだな、とおかしかった。
篠田監督に初めて会ったのは、映画『心中天網島』(1969年)の製作記者発表の時だった。紙屋治兵衛役が中村吉右衛門だったので(遊女の小春と女房おさんのふた役は岩下志麻)、私は映画担当の記者ではなかったが、先輩記者について行き、あとで監督に紹介された。
そのころ私は女性週刊誌のフリーライターだったから、何か談話が必要となるとすぐに駆込寺のような篠田監督に依頼して、その度に切り口の鮮やかなコメントを頂いていた。
たとえば「男にとって女の美醜とは」なんていう特集にも、「姿形にはまったく捉われない、と割切れるのも男。しかしそれに捉われてしまうのも男」というような、いかにも美人女優を妻に持つ人にふさわしい回答を寄せてくださるのだった。そして住む場所が近いと知れてからは、いつも自ら運転するクルマで送って頂いていた。その時もずっと色んな話が続いていて、助手席にいる私は、今ごろさぞお口の端にこまかい泡がたまっているのだろう、と想像しながら楽しく耳を傾けていた。
監督のご自慢話は早稲田大学演劇科一年の時に、駅伝の「花の二区」(鶴見から戸塚まで)に抜擢されて二人抜きを果たし、母校を二位に導いたこと。でもその後アキレス腱を切って、スポーツの世界からは遠ざかったが、駅伝の区間を走りながら、沿道の風景が一瞬一瞬目に飛び込んできては消えていく時間の流れが「映画に似ている」と思ったこと、などだった。
「向うに見える山とか、沿道で振られてる小旗とか、道に落ちてる何かとか、それを文章で表すには時間が大変だけど、映画だと走ってるのと同じ速度でみんな描写できる。何かにつけて僕は映像の世界にだんだん引き寄せられて行ったんですね」
私も折にふれて、雑談のお返しをした。
「浅利慶太さんがミラノ・スカラ座で『蝶々夫人』(プッチーニ)の演出をするので観に行ったら、序曲の時に、黒子がたくさん出てきて、装置を組立て始めました。イタリアのお客は驚いていましたけど、監督の『天網島』の影響ですね」
「串田和美演出のコクーン歌舞伎やニューヨーク公演『夏祭浪花鑑』とか、『法界坊』にも黒子が表立って出て面白く芝居をしてましたけど、やっぱり『天網島』の黒子は二人を心中に導く重い役割を果たしていて、深くて不気味な存在でしたね」
そしてある時、吉右衛門さんが日生劇場に出ているのをご一緒に観に行って、終演後に帝国ホテルのラウンジで待っているとそこに播磨屋が現れてお茶になり、
「監督の目の前で岩下さんと濃厚なラブシーンを演じるって、あんなにやり難い芝居をしたことはありませんね。もう監督は気短かだから、すごい気合いを入れられて(笑)」
みんな若くて、楽しかった。
ある時、明治生まれの大詩人、堀口大學先生とふとしたご縁でお目にかかる折があり、その聞書きを角川の雑誌「短歌」に連載するという、私にとっての大きな転機となるべきチャンスに出遭った。大學先生の主に詩にまつわるよもやま話を私が書いて、大學先生がお目を通し、それでよければ掲載となるはずだったが、大學先生のところは無事通過したのに「短歌」の編集長のところで引っかかった。理由は「堀口大學が見えてこない」。
私は会う人会う人にこぼしたが、「正念場だね」「よく考えて」などと言われるばかりだった。
そんな時、あ、私には駆込寺があったっけと、篠田さんに会いに行った。監督は「僕はこれからテレビのドキュメントの編集をするんだから、それを横で見ていなさい」と、忘れもしない五反田の東洋現像所に連れて行って下さった。
その番組は島崎藤村と信州がテーマの文学散歩風のもので、人物の談話があっては風景が映ってナレーションが入り、また別の人物の談話になる、という構成で、監督はただ黙々と仕事を続けていた。
私の聞き書きスタイルはこの時誕生したもので、談話とその場の情景や詩の引用などを交互に書いていくことで「大學先生が見える」ようになった気がする。監督には勿論のこと、原稿をあっさり受け取らなかった編集長にも今もって感謝している。
おかげでその『日本の鶯――堀口大學聞書き』は、雑誌「短歌」の愛読者賞と、もう一つ日本エッセイストクラブ賞を受けた。
「正念場だね」「よく考えて」の人たちからは、「これでみんなのあなたを見る眼が違ってくるよ」と祝われたが、でも監督は以前からまったく同じで、何も変わらずですね、と私が言うと、監督はにこりともせずにこう言った。
「僕は映画監督ですよ。その役柄のオーディションで何百人もの人に会って、人を選ぶ。あなたがどういう役柄の人かはわかってましたからね」
すごい殺し文句‼ とつくづく思って、自慢に聞こえるからこれまで人に語ったことはなかったが、篠田さんの訃報に接して、しみじみあの日の言葉と声が蘇り、話してみたい気持ちになった。
┃プロフィール
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。
![春陽堂書店|明治11年創業の出版社[江戸川乱歩・坂口安吾・種田山頭火など]](http://shunyodo.xsrv.jp/blog/wp-content/uploads/2018/04/shunyodo_logo_180325_CS4.jpg)
