岡崎 武志
第59回 野上弥生子『迷路』を読む(上)
左翼運動の挫折とファシズム『迷路』を要約するのは骨だが、未読の方にいちおう補助線を。時代は昭和10年から空襲が激しくなる敗戦前夜あたりまで。主人公の菅野省三は、著者の故郷(大分県臼杵)を思わせる南九州の老舗造り酒屋の次男で、東京帝大へ通う学生だったが、左翼運動に身を投じ逮捕、投獄。転向して出獄した末に大学を2年で退学してしまう。翌年は二・二六事件が起き、ファシズムの台頭と軍部の独走による開戦へと日本を暗雲が覆う。そんな中で、敗者としてのこの挫折は、主人公ながら省三にやや消極的で弱い印象をもたらす。純文学が多く選び取る主人公像の嫡子とも言える。頑健かつ大声で笑い、猪突猛進で物語をリードする人物は大衆文学へ流れていく。
この点について、丸谷才一の評はもっと辛く「残念なことに『迷路』の青年たちは總じて影が薄いし、とりわけ主人公の省三はあまりにも典型的な人物にすぎる。(中略)型通りの人物といふ気がして、大長篇小説の中心人物たるにふさはしいだけの貫祿に欠けるのでである」という。私はそうは思わなかったし、とくに「下」巻、兵役で中国大陸に渡ってからの展開は彼を大きくさせる。もっと言えば、周辺人物を浮き上がらせるため、前半は黒子に徹する主人公にも見えた。

省三なるものは、直接的には、醸造業の大店のお嬢さん(ほとんどお姫様)として上京する作者と、同じ地から東京帝大へ進み、野上の家庭教師を務め、のち伴侶となる野上豊一郎が投影されている。もっと言えば、消極的ながら時代と女性に翻弄される省三には、弥生子の師匠格にあたる夏目漱石『三四郎』の主人公も一部重なる。名前にも同じ「三」が入っている。
エリートの梯子から降りた主人公は、お情けで史料編纂という地味で退屈な職を得て生きている。同じく挫折組の木津は二流新聞の記者に、仲間に加わらなかった同窓の小田は大学の研究室で「稲の害虫と光線」の実験を続けている。これが省三を取り囲む友人たちで、何も起こりそうにないが時代の波乱がやがて彼らの運命も動かしていく。
『迷路』の登場人物は多く、いつもそうするように本の扉とその裏へ人物の相関図を作り、つねに参照しながら読むことにした。書き並べて分かるのは、『迷路』が日本の現代小説には珍しいハイソサエティと呼ばれる層を扱っていることだ。官界と政界に勢力を張る垂水重太の一家。軽井沢に別荘を持ち、長女・多津枝は器量がよく高慢な「新しい女」で省三とも対等の口をきく。郷土の成功者で省三を庇護する実業家の増井礼三、美しい子爵夫人の阿藤三保子など、みな都内の大邸宅に住み、秘書、女中、書生など多くの雇人を抱えている。戦争に突入し、庶民の生活は窮乏しても、彼らはぜいたくをし何も困らない。
たとえば省三が訪問した垂水邸。応接間の壁にセザンヌの油絵が架かり、窓の外には蔦の絡んだ煉瓦塀に沿って停まるパッカードが門燈を受け「濡れたように光っていた」。省三の目の前に現れた多津枝は、風呂上がりで珍しく和装の「紫紺いろの粗い横縞のお召を、短く縮らした断髪の襟もとにきっちり締めつけて着た格好」で、深椅子に腰かける。まるでフランスかロシアの貴族のようだが、これが昭和10年頃の話であることを忘れてはいけない。多津枝は本作で重要な役目を果たす。
描写の緻密と停滞

『迷路』の登場人物の多さについては先に触れたが、なかでも異色は江島宗通。「染井の御隠居様」と呼ばれる老人。染井霊園近くの邸に、側室のとみ、およびこちらも女中ほか雇人を置いて、度を越した能三昧で暮らす。彼が世捨て人として何不自由ない生活を送れるのは「旧領地の方に持っている土地、田畑、山林のほとんどすべて」を所有しているからだ。その旧領地は祖父で徳川幕府の大老だった「江島近江守」のもので、彼は万延元年(1869年)3月、登城の途中、桜田門前で水戸浪士の手で暗殺される。つまり井伊直弼のことだ。宗通は井伊伯爵だと、著者が「あとがき」で本作唯一、はっきりしたモデルとして提示している。「正夫人をめとらなかったこと、生涯を能に託したこと、梅若万三郎のパトロンであったこと」は、まさしく宗通と重なる。能楽について、その記述や知識が詳細にわたるのは、弥生子の夫・野上豊一郎が能の研究者であり、嗜みを共有していたからだ。
なにごとも和式で調える宗通だが、たとえば朝食は「イギリス風」。
「ベーコンに添えた二つの半熟卵、二切れのトーストのほかに、一皿のオートミール、薄塩でバタ焼きにした白味の魚、紅茶。それには牛乳も砂糖も入れないが、花の刺繍のある茶帽子に蔽われた壺形のティ・ポットが、ほとんど空にされてしまう。起きぬけの充分な発声は、三十分の長い上厠とともに、こころと、からだの、二つながらのカタルシスであり、胃の腑にも活潑に作用した」
老人にあるまじきカロリーだが、宗通はこのあと、本格的な能衣装を着け、自宅に設えた舞台で能を演じるのだった(観客はなし)。
それにしてもと思うのは、野上弥生子の緻密かつ克明な描写で、これは全編にわたる。自然や地誌、建築や調度、人物の肖像やファッションまで、字数を費やすことを厭わない。ここに世界情勢から日本社会、男女問題などについての長い議論が加わる。そのために長くなったとも言えるのだが、正直、私はときどき読むのに飽いて、目を滑らせることもあった。あまりに目の詰まった(ベルギーの刺繍のように)描写は、物語の流れを止めることもある。『迷路』読了には深い満足感とともに、ある徒労感も残したことを正直に告白しておかねばならない。しかしこれらをなくして、単純に戦火における男女問題だけクローズアップさせてしまうと、菊池寛の小説と変わりがない。
野上弥生子先生、やっぱりあなたは立派な作家です。と締めておいて、次回に続く。
(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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