
第60回 野上弥生子『迷路』を読む(下)
一つの作品と長くつきあっていて、その間、ふだんでもずっと頭を去らず、ずっと考え続けていることがある。今回、『迷路』の読書中は、そんな状態にあった。もちろんこれは、読書のいい傾向を示す。そんな際中に久しぶりの友人とバーで酒を飲んだ。急な階段を上がった2階の狭い店で、ミュージシャンの店主が夫婦で営んでいる。若い客も多く、いい店だ。友人の隣りに女性が腰かけていて、聞くとぼくのことを知っているようだ。話に加わってもらい、帰ろうというときに「何か、本を推薦してくれませんか」と言われた。じつはこれは難問である。相手の読書経歴や好みを打ち込んでAIが答えるのがベストだが、私はすぐ頭に浮かんだタイトルを、カウンターにあった紙ナプキンに走り書きした。もちろん、野上弥生子『迷路』岩波文庫、と書いた。読むかどうか、読んで面白いと思うか否かはその女性次第。それだけ、私の頭の中を大きく占めたタイトルだったのである。
さらに別の日、古書即売会の初日に本を漁っていると、瀬沼茂樹『野上彌生子の世界』(岩波書店)という本が引っかかった。『迷路』を読む前ならスルーした本である。値段は200円。函入り布装ハードカバーの立派な本だ。ありがたく買わせてもらった。本体後ろ見返しに、1984年5月の野上弥生子に関する新聞記事(掲載紙不明)が2点、挟み込まれてあった。私にすればありがたい資料だが、通常はこういうことをすると古書価は下がる。家に持ち帰って改めて見ると、1点は野上弥生子百歳(数え)を祝うパーティのレポート。もう1点は、同じく百歳を記念する講演を終えての大江健三郎との対話。『野上彌生子の世界』も1984年の刊。ちなみに改版岩波文庫『迷路』上下巻も同じ年。この翌年3月に野上が亡くなることを思えば、なんと華やかな最後だろう。百歳記念のパーティを伝える記事には、登壇した野上の「もう一つ何か書いておかなければと思います」という発言が引かれている。いったい何歳まで生きるつもりだったのか。読書がまだ有効な教養の品目だった。この時、最後の長編となる『森』を執筆中で、これは未完に終わった。しかし、底知れぬ生命力と知力である。もう一つの記事で半分の歳だった大江は『迷路』について、こう分析をする。
「若者たちが傷つき、沈黙し、どのように再生するかを、今日明日について書き続ける発心は並たいていのものではない。五十年後の今、全共闘運動について同じことを書きえないのは、現在の文学の大きな欠落を示している」
これは古本に挟み込まれていたからこそ、私が読むに至ったことで、とても過去の新聞記事にまで調査が及ばなかった。前の所有者にお礼を言いたい。2000年後に刊行された本が古本となって流れても、こういうケースはまずない。読書が未だ有効な教養の品目だった1980年代までは、読者もみな真面目だったんだな。

『迷路』の女性たち、その結婚
さあ、ようやく『迷路』についての話だ。『迷路』は第1部が「黒い行列」と題され発表、翌年に第2部が『迷路』として書かれた時は戦争の動向も結末も分からぬままに書き継がれ、戦中に中断した。すべての歴史の札が開かれた後の1948年、北軽井沢の別荘で新たな構想を盛り込んで、すべて改稿し、大長篇は完成へと始動した。なかなかに複雑な執筆過程を内包している作品だ。
この壮大かつ複雑、重層的な長編を手際よく分析する力は私にはない。そこで一つ提案。私もそうしたのだが、貴族や軍部、政財界における社会構造については、ストーリーの背景としてつき合い、むしろ『迷路』を代表的な女性の生き方を「結婚」に重点を置いて読もうとしたのである。これで上下約1300ページにはっきりと明確な道筋ができる。
女性は本作にたくさん登場するのだが、映画化されるなら有名な女優が振り当てられるという意味で4人に絞りたい。
・多津枝 政界へ進出した垂水重太の長女。美しいが驕慢で男と対等の口をきく。菅野省三とは幼馴染で、高級な生活に慣れている。
・万里子 鉱山を所有する実業家・増井礼三の養女。礼三の弟とアメリカ女性の間に生れたハーフで、礼三が引き取って育てる。言葉少なく、ほとんど「ええ」「いいえ」で受け答えする。
・せつ 省三の友人で新聞記者の木津の妻。唯一、貧しい家の出身である。
・三保子 阿藤子爵夫人。中年になっても美しい女性で妖艶な魅力を発する。省三と関係を持ち、結婚後も誘惑する。
私はなんとなく増村保造監督の大映作品として、実年齢は符合しないが、多津枝を若尾文子、万里子を岸恵子、せつを香川京子、三保子を京マチ子とイメージして読んだ。省三は市川雷蔵か。
まずは準主役級として大きな存在なのが多津枝。省三の2つ下、物語開始時は24歳。この時代、やや適齢期を過ぎている。「この多津枝にも怖いものが皆無ではなかった。それも二つあった。省三に大っぴらに公言する通り貧乏になることと、もう一つは、美しくなくなることであった。省三のことは気になりながら(軽井沢の別荘で多津枝からプロポーズめいたことをする)結婚相手にならないのは「貧乏になること」が約束されているからだ。多津枝にはすでに稲生財閥の御曹司で銀行マンの稲生国彦という婚約者がいた。
稲生は財力もあり家柄もよくリンカーンに乗る遊び好き。パリに子供を産ませた女がいることは百も承知で多津枝は嫁ぐ。結婚は愛情というより「家」が優先される打算の産物であった。これは阿藤三保子も同じ。若い頃、吉良という男を愛するが、無理やり阿藤家に輿入れとなる。一種の政略結婚だ。
当時としては特殊なことではない。石原千秋『百年前の私たち 雑書から見る男と女』(講談社現代新書)に「結婚の前夜に」という章がある。明治末年の雑誌付録に「少女出世双六」があり、そこでは「上流社会」「下流社会」とはっきり進路が分けられるものの、「上り」はどちらも「嫁入り支度」だ。つまり「この時代、女性にとって結婚が人生最大の目標」だった。これは『迷路』の時代も変わらない。そして理想の結婚の条件は、1に血族関係、2に遺伝、3に家柄、4に尊親についての標準と続き、5にようやく当人に就いての標準がくる。まんじゅうで言えば、大部分を占めるはずの中身のあんこより、外を覆う薄い皮が大切だった。多津枝も皮で結婚を選んだ。
存在感を示す女たち
万里子はハーフの養女という以上に異色の存在で、自分の立場を気兼ねするのかほとんど自分を主張しない。物語開始時は20歳で、養父養母が持ち込む縁談をことごとく回避し、その点の意志は強固である。徹底した箱入り娘は「特定の若い異性に胸をときめかした覚えはまだなかった。それでもただ夫をもち、妻となるために結婚するような結婚だけはしまい」という考えは、その気はなくても多津枝への批判になっている。万里子は結局、省三と結ばれ本当の平安を得る。打算や混じりけのない幸福というものが現出する。『迷路』で省三が陥った迷路も、万里子と結ばれることで脱することができる。ほとんどこの一点で『迷路』に光が当たるのだ。
せつは木津の妻だが、家を顧みず不実な夫に耐えて愛情を持ち続けている。強き忍従の女だ。その哀れな立場を、省三や木津の友人である研究者の小田は憤り、それがやがて愛のカタチとなる。小田に対して省三は思うのだ。「せつの愛情より君の愛情の方が更に美しい」と。このあと、せつはさらに意外な行動に出る。闘う女でもある。
三保子については、省三を惑わす蜘蛛女のようだ、としておこう。軽井沢の夜、仕掛けたように省三と歩く三保子。
「三保子はちょっと歩きやめ、春の風が若い枝をしなわせるようにも自然に、細っそりした肩を隣りに凭たせかけた。くすり指の長さほど低かった。彼女は咽喉の奥で短かい笑い声をたてた。肩は離れた。が、スエタの腕にすがった手までもとへ戻そうとはしなかった。省三が抜きだそうとするたびに、まえより絡らみついた」
このあたりの抜き差しならぬ男女の描き方はみごとというしかない。結局、男性は女性に勝てないという勝利宣言を、著者はこれらの女性像を通して読者に納得させる。「迷路」に行き惑うのは男性であって、女性は首尾一貫した生き方を貫いていると言えるだろう。
この大作を十分に紹介しきれたとは思っていないが、懐ろ深く、目配りは細かい小説と出合えたのはよかった。読むのも書くのもちょっと疲れました。
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1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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