
大正九年生まれで六十一歳で亡くなった新劇俳優の芥川比呂志さん。その舞台を実際に観たという人は、もうあまりいないのかも知れない。そこが舞台俳優の泣きどころ。
私は小学生の頃に兄に与えられた芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』『アグニの神』などで育ったせいか、芥川作品に夢中になり、中学の時にはもう、大学では国文科に行って卒論は芥川龍之介、と決めていた。
フリーの編集記者になったのも、文学的香り漂う二枚目の芥川比呂志、吉行淳之介、森雅之に会えるかも、という望みからだった(森さんにはとうとう会えなかったが)。
その願いは割合に早く叶えられて、まずは芥川さんに原稿を依頼し、目黒区東が丘の芥川邸にそのエッセイを頂きに伺う日が訪れる。
荒い地肌のコンクリート打ち放ちの高い塀が新劇の舞台装置の城壁のようで、いかにもハムレット役者が住む家に似合っていた。
芥川さんは私が中学生の頃から観続けている舞台の印象とあまり変らない、理知的だけど笑顔が素敵! という感じで現れて、「どうぞお目通しください」と原稿を差し出す。
緊張しながら読み始めると、「うーん、でもね、逆なんだなあ」とか「そんな気がしてね、はっはっ」とか、まるで一人芝居の台本のようで、意表を突かれながらもちょっと気取り過ぎじゃないか、という気もした。
ゲラをお送りしたら、何かお腹立ちのような連絡が入ったのですぐに伺うと、書斎から険しい表情で現れて、
「ちょっとこれ、独壇場を独擅場なんて誤植して、しかもご丁寧にドクセンジョウだなんてルビまで振って、どういうこと?」
と詰問され、私もそう思ってすぐに広辞苑で調べましたが、「独壇場は誤り」とありました、と答えると、「そんなはずは……」という感じで書斎に消え、数分後には打って変った笑顔の芥川比呂志が現れて、
「ほんとだねぇ、知らなかった。でもこうすると、読者がここでつまずくから、何か別の言い方を考えようじゃないか」
とのことで、私が「一人舞台」ではいかがでしょうか、と言うと数分して、「まあ、ちょっと弱いけど、そうするか」と譲ってくださった。
それからはくつろいで、明るい芝生の庭を眺めながら、芥川さんの一人語りを聞くことになる。ワイドスクリーンのようなはめ込みガラスの向うに見える緑の芝生の上を、一羽の鳥が気取った感じで歩いて行くのを、「あれ、小綬鶏」と教えてくれたりしながら、少年時代の話になった。
「あなたは父の作品がお好きなんですって? 父の話をしてあげよう。僕が幼稚園の頃、聖学院附属幼稚園だからクリスマスには生誕劇というものをやる。僕の役は羊飼で、台詞がたった一つ。──あれ、あの光をごらんなさい。あの音楽をお聞きなさい。みんなひざまずいて、神様のお告げを聞きましょう、というんです。僕たちがその劇の練習をしているとね、ある日、父がそっと見物に来たんですよ」
私が思わず膝を乗り出すのを、当然のように受け留めて、
「先生の弾くオルガンに合せて、僕が手を上げたり下げたりしながらほかの羊飼や羊たちと輪になって歌いながら行進していると、ガラス窓の向うに父の顔を見た! という気がしたんです。すぐ振り返ったけど。もうガラスが光って確かめられない。ドキドキしながらもう一周してオルガンのところへ来ると、今度ははっきり父の顔が見えました。黒い二重廻しを着て、何人かの女の人の後ろにいても父は飛び抜けて背が高いからすぐわかる。僕と目が合うと、こんなふうににっこりうなずいてね」
その顎をちょっと引くだけのうなずき方が、芥川龍之介を現実に見るようだった。
また、ある日のこと。昨夜読み終えたばかりのアガサ・クリスティのミステリーの話になった。
「波の寄せるたびにしぶきがかかるような海辺の洞窟に、ポアロはじっと座っている。暗さにやっと目が慣れると、奥の小高い岩のひだに、男と女が向き合って座っている。ちょうど今の君と僕みたいな間隔で。やがてその男と女はキスをするのね」
芥川さんは、両手を高く上げて、長い指を一本ずつ立てると、その指たちがそっと斜めに近寄ってキスをするさまを演じて見せてくれた。
私はなんだかゾクゾクして、その時ふと思ったのは観たばかりのチェーホフの『かもめ』のニーナのことだった。トレープレフという恋人がありながら、その母で大女優のアルカージナの愛人、小説家のトリゴーリンに惹かれて道を誤る……。でも、私はニーナのような小娘じゃないし、第一、芥川さんに失礼だった、と思ってちょっと笑った。
芥川さんが不思議そうに私を見ていた。

┃プロフィール
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。
![春陽堂書店|明治11年創業の出版社[江戸川乱歩・坂口安吾・種田山頭火など]](http://shunyodo.xsrv.jp/blog/wp-content/uploads/2018/04/shunyodo_logo_180325_CS4.jpg)
