岡崎 武志
第67回 一葉「たけくらべ」からあしたのジョーへ(下)
いよいよ吉原へ一葉記念館の展示で気が付くのは、けっこう写真が残されていること。明治中期、まだ写真撮影は珍しく高価だったかと思うが、萩の舎の同輩たち、母、妹と撮った写真など、思ったより数が多い。「たけくらべ」でも表組の仲間である正太に「ねえ美登里さん今度一処に写真を撮らないか」と誘われている。「水道尻の加藤」と名前が出てくるが、これが写真館か。一葉と言えば五千円札になったアーモンド形のきりりとした瞳を持つ美女が、代表的な肖像になっていて得をしている。だが、ほかの写真を見ると実物はちょっと違っていたのでは、と疑いを持つ。絶世の美女、というふうには見えない。
萩の舎発会での集合写真など、「後列左から三人目」と指定がなければ、一葉を探すのは難しい。ただ、面白いことに、ここに写る和服姿の女性たちはすべて袂で手の先を隠している。これは写真術の初期段階で、真ん中で写ると短命だ、の迷信の類ではないか。そして、たった一人一葉のみ、右手の指先が袂から出ている。これは偶然なのか、そんな迷信は信じないという大胆さの表れなのか。今度、一葉記念館へ行ったら、ぜひ確かめてください。
酉の市の準備が進む、まだ閑散とした鷲神社を後にして、われら一行は吉原を目指す。正確には「新吉原」と呼ぶべきで、もとは日本橋にあった。元和2年(1616)、葦が生えた原にできたことで「吉原」とついたのだった。これが明暦の大火で炎上し、現在の地に移転された。これは探訪のための前知識。
最初に訪れた「吉原神社」は大河ドラマ『べらぼう』でも最初に登場する、遊郭の鎮守の社である。位置的に申せば、鷲神社から200メートルほどの至近にあるのだが、なぜか東へ直結する道はなく、南へ大きくV字に遠回りを余儀なくさせる。これが江戸時代以来の道とすれば、おそらく吉原へ向かう人を明らかにそれと分かりにくく(姿を見通させず)した工夫ではないか。ただ一つの出入り口である吉原大門もその先、見返り柳へかけて道は屈曲している。これは明らかに指摘したような人事的作為であった。
一葉桜通り(小松橋通り)に合流してすぐ右手に「吉原弁財天」。田んぼだった地に吉原を造成する際、残された池が弁天池で、遊郭の楼主たちにより池畔に祀られたものだという。道を挟んで反対側に「カストリ書房」。遊郭関連の専門書のみ取り扱う書店(古書を含む)で2016年にオープンし、2023年にこの地へ。その珍しさからずいぶんマスコミに取り上げられ有名になった。今回我々はスルーしたが、ちょうどうら若き女性3名が入店するのを見た。
かつて吉原周辺にも古本屋があった。1976年版『新版古書店地図帖』(図書新聞)を引っ張り出してきたのだが、台東区に新刊含めて17軒の記載あり。竜泉2丁目に田中書店、まさみや書店、1丁目に水戸屋書店が見える。いずれも現在は廃業。うち田中書店へ私は訪れている。『べらぼう』の主人公・蔦谷重三郎も最初は、遊女相手の貸本屋を生業としていた。
『べらぼう』でおなじみ「吉原神社」
カストリ書房の先、台東病院(かつて吉原病院)で道はまた大きく右に折れたらすぐ「吉原神社」が見えてくる。明治初期の創建。先述の通り、吉原遊郭の守り神で、遊女たちが足しげく参拝をした。さすがに『べらぼう』の幟が立ち、大河ドラマファンを待ち受けている。「九郎助稲荷」と門柱にあるのは、ここが吉原内にあった社5つの合祀によるもので、その一つが「九郎助稲荷」だった。『べらぼう』では語り手の綾瀬はるかが、吉原を見守るお狐さま(九郎助)になってここに姿を現す。それにあやかって、境内に新たに狐の像が建立されていた。これは足を運んで初めて知ったこと。やっぱり現地を踏むってことが大切だと、あらためて思った次第。狐の像の頭をなでておこう。同じ通りのすぐそばに「江戸新吉原耕書堂」。『べらぼう』を見ている人ならごぞんじ。蔦重が開業した版元兼書店がこの名前。現在、大河ドラマ放映中の限定営業で、ゆかりの品やお土産ものを売っている。ここは繁盛しておりました。「商魂たくましい」パワフルな店である。この近くに、美登里が居住する大黒屋の寮があった。耕書堂の真向かいの店が「大黒屋」。吉原には「たけくらべ」が生きている。
われら一行は、風俗店の立ち並ぶ現在の吉原内を散策し、往時の痕跡を探した。矩形の町割りの端はいずれも少し坂になっていた。これは吉原がもとは湿地帯で、妓楼を建設するため盛り土をしたため、全体に周囲より上がっている。ところどころ、段差のある個所も残り、まさしく吉原の痕跡だ。お歯黒溝の遺構も見られるとのことだったが、今回は発見できず。「吉原公園」は「大文字楼」の敷地がそのまま公園になった。大見世の規模がここで確認できる。
江戸を偲ぶには遠すぎるが、昭和時代のカフェとして使われたレトロ建築物は、伏見通りに散見できる。「カフェ」といっても、いまどきの古民家カフェのおしゃれ空間とは違い、ここでも売春が行われたのだ。美登里もやがて男に体を売るようになる。ラスト近く、お転婆だった美登里が急に女らしく変貌するのは、「初潮」説と「水揚げ(処女を失う)」説と議論が分かれている。「初潮」説を取るのは和田芳恵など、だいたいが男性。美登里を汚したくない、という甘い願望が入っている。「水揚げ」を主張したのは佐多稲子で説得力を持つ。私は後者を取る。
美登里の変化を周囲は「怪しがりて病いの故かと危ぶむ」とあるが、母親の「一人ほほ笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休み」という発言も、「水揚げ」を匂わせるではないか。
一葉からあしたのジョー
文学散歩の途中から雨が降り出した。吉原大門跡の「見返り柳」を見ておこう。もちろんこれは何代目かに植えられたもの。目の前が「土手通り」と呼ばれるのは、かつて田んぼの中に吉原へ向かう土手があったから。江戸落語にはよく登場する。

産経新聞社会部編『東京風土図〈Ⅱ〉』(現代教養文庫)は昭和34~36年の産経新聞連載記事をまとめたものだが、当時の見返り柳のある吉原大門交差点付近の記述がある。昭和30年代、まだトロリーバスが走っていた。土手がここに築かれたのは音無川が流れていたから。現在は暗渠となっているが、「注意してみると、両わきの町屋が、道路より少し低くなっている」という。地形は歴史を物語る一例である。
ここから東へ、日の出商店街を歩いていく。南千住駅から南下する吉野通りと交差するのが東浅草2の四つ角。この一帯、高度成長期に日雇い労働者を安価に宿泊させる「山谷」と呼ばれるドヤ街があった。数は減ったが、簡易宿泊所は今でもある。江戸から急に昭和へタイムスリップだ。前掲の『東京風土図』の記述。
「都電通りを山谷町に行く。このあたり一帯は簡易旅館街=ドヤ街である。東方の玉姫神社や玉姫公園あたりまで、小さな町工場、貧しい長屋が多く、民生館もある。ドヤ街の起因は、明治・大正時代に多くの木賃宿ができたことであった」
このドヤ街にねぐらを求めてふらりと現れた若者が矢吹丈。漫画史に残る名作『あしたのジョー』だ。高森朝雄(梶原一騎の変名)原作、ちばてつや作画で週刊少年マガジンに1968~73年に連載された。畢生のプロボクサーとなるきっかけを作ったのが、ドヤ街の一角にある「玉姫公園」での丹下段平との出会いであった。よく知られた作品なので詳述は避ける。ただ、ジョーの歩く簡易宿泊街や、ブランコのある玉姫公園など、作画のちばてつやが入念に現地を取材したことがよくわかる。ファンには聖地の一つで訪れる人も多い。
玉姫公園は玉姫神社に隣接する関東大震災後に作られた復興小公園の一つ。災害時の避難地の役目も果たした。現在はホームレスのたまり場となっており写真撮影は控えた。玉姫神社にはジョーと白木葉子のパネルがあると聞いたが未見。南千住駅へ向かう大通りに戻り、しばらく行くと「泪橋」交差点。ジョーと段平がこの橋のたもとにジムを作る。漫画原作では川が流れているが、連載当時もすでに川はなかった。むしろ南千住にあった小塚原刑場の「刑場に送られる罪人の近親者が涙ながらに別れたところ」(『東京風土図』)というイメージを流用したのではないか。

一葉で始まった文学散歩が、地図をにらんでいると『あしたのジョー』につながった。美登里の行動範囲は吉原周辺に限られ、見返り柳のある音無川を渡ることはなかったはずだ。やがて花魁となる少女には、吉原が泪橋だった。

(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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