
岡崎 武志
第69回 筒井康隆『敵』を読む
今年(2025年)、いつだったかNHKテレビに筒井康隆が登場し、車椅子姿であるのに驚いた。筒井は1934年生まれで今年91歳。私の母親と同じ年齢だ。私の母親は車椅子ではないものの歩行はカートに頼っている。だから不思議な話ではないのだが、あの筒井康隆が……と、少しショックを受けたのだった。2023年に自宅で転倒し怪我をしたことを端緒に車椅子生活になったようだ。現在は夫人とともに高齢者介護施設に入所している。筒井康隆自身によるエッセイで読んだ(記憶で書く)のだが、あるレストランで食事をして店を出たとき、若者たちと遭遇し「作家さん、ですよね」と声をかけられた。筒井は時々テレビに出ていた(ホリプロ所属)ので、顔のみ知っていたのだろう。ただし名前まではわからない。「どんな作品をお書きですか?」と考えようによっては失礼な質問をされ、筒井は「たとえば、『時をかける少女』とか」と答えたとき、若者たちが絶叫に近い声を挙げたという。
さもありなん。通称『時かけ』は映画を始め、ドラマやアニメで何度も再生産され、半世紀も前の作品ながら現役の人気商品なのである。演歌歌手ならこの1作で、地方公演など一生食べていけるコンテンツである。失礼ついでに言えば、いまブックオフを代表とする古本屋チェーンで220円以下の文庫棚を見ると、筒井の作品はいたって少なく、あるのはほとんどこの『時かけ』で複数冊ある。全盛を知っている者には、少し淋しい。
筒井康隆論に踏み込む気はなく、なるべく早く切り上げるが、新潮社から全24巻の函入り全集が出たのが1983~85年。80年代、筒井は『虚人たち』、『虚航船団』など長編の純文学作品へ移行を始める。全集ではその最終巻である24巻『ジーザス・クライスト・トリックスター/点景論』を所持しているが、短編と戯曲とエッセイを収録。解説は大江健三郎。特記しておきたいのは、挟み込みの封筒に「ダブルプレゼントのお知らせ」とあって、全巻購入の特典として、筒井康隆がクラリネットを吹くジャズ演奏(バックは山下洋輔ほか)と朗読によるLPレコードをもれなく進呈。抽選で筒井の肉筆画色紙がプレゼントされるという。いったいどれほどの経費をつぎ込んだのか、と恐ろしくなるが1980年代の出版界の景気のよさをうかがわせる。

ちなみにこれも全集に挟み込まれた新潮社の新刊案内を見ると、1985年3月の新潮文庫新刊は18冊で、著者名に星新一、藤沢周平、向田邦子、柳田邦男、海老沢泰久、永井路子、角田房子、澤地久枝などが並ぶ。NHK「紅白歌合戦」の出場歌手を見るとき、現在では半分以上はその名を知らぬのに比べ、80年代の輝かしいメンバーにため息が出るのに似ているか。 映画を観て原作『敵』を読み、老いについて考える
『敵』は最初映画を観て、のち原作を読んだ。読み(観る)比べると、映画は原作のかなり忠実な映像化だとわかる。主人公の渡辺儀助は75歳。庭付きの一戸建てで一人住まい(妻を亡くし子どもはない)。大学ではフランス近代演劇史を教えていたが、著作は1冊で目立った業績を残したわけではなさそうだ。掃除、洗濯、炊事などできる限り自分の手で行い、優良な老人だ。映画は吉田大八が監督、主演の儀助役には長塚京三。

同年配の友人は少なく、教え子たちが編集者になって原稿依頼をしてくれたり、力仕事を手伝ってくれたりする。驚くほど地味で簡素な生活だが、この老人を夢と妄想めいた幻覚が襲う。パソコン通信で、ある日「敵です。敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の」と意味不明な文言が紛れ、しかも繰り返される。夢や妄想が老人の日常を支配し始めているので、見えない敵が事実かどうかはわからない。映画でははっきり敵の姿が映し出され、儀助の死で幕を閉じる。映画より原作ではっきりわかるのは、「敵」は自分自身であり「老化」そのもの、ということだ。老いの恐怖は、原作の方がより具体的で切実である。
筒井康隆がこれを書いて(書き下ろし)発表したのが1998年。まだ64歳だった。老いの恐怖は現在(91歳)の方がリアルであろう。日本の高齢化率の推移を調べると、1995年(14・6%)ぐらいから高齢化社会の到来が顕著となり、『敵』の執筆時期と重なる。2005年には20%を超え、直近データとなる2024年には29・3%に達した。日本は世界的に見ても、長寿、超高齢化社会となった。2025年に映画公開となったのは時期を得ている。
『敵』は文庫解説で川本三郎が書く通り「老人文学の傑作である」とともに、老いの研究書であった。少なくとも私はそう読んだ。
原作『敵』でこと細かに描かれるのは「老い」および「死」、「食」、「経済」、「性」などである。なるほど、と思ったのが、儀助は自分の体臭を異常なほど嫌う(忌避する)こと。映画でも描かれるが、たとえば朝の歯磨きは念入りに行い、風呂場では石鹸をつけ体を一心不乱に洗う。中元その他でもらった石鹸が家にあふれかえり「これらだけは自分で死ぬまでにも使い切れまいなあと儀助は思っている」。石鹸の数さえ余命(死)に直結する。使い切れないほど大量の石鹸、というのは滑稽であり、作者はもちろんそのことを狙っている。 「老い」の研究

75歳儀助の独居生活で感心するのは、外食を避け、なるべく家で食事を取り、それも自分で調理(できあいのおかず、冷凍食品などは避ける)することだ。老人、しかも男性の一人暮らしでやっかいなのは、この「一人分の食事」を1日3回、作ることではないか。『敵』は、儀助の生活と思想を「朝食」「友人」「物置」「講演」「病気」など、テーマ別に章立てしている。「麺類」という章もある。昼はもっぱら蕎麦で茹でるところから詳細に描写されている。
茹で時間は蕎麦の包装紙に書かれたものを信用せず、茹でながら何度か1、2本食べて「やや固いめで揚げる」。汁にもこだわりがあり、「こまかく刻んだ葱と擂り胡麻を入れ練り山葵を溶かす。胡麻は煎った白胡麻を買ってきて擂り鉢でこまかく擂る」と本格的。この手間を手間と思わず、おいしいものを食べたいという欲求と、そこへたどりつくまでの料理過程を楽しむ姿勢が、儀助をみすぼらしくさせていない。この料理場面は、ぜひ土井善晴先生に朗読してもらいたい。
経済も深刻な問題だ。「預貯金」の章で具体的な数字が挙げられている。儀助の退職金は3200万円。年金は月額23万円。「教授としては通常よりやや少いめだがまずは妥当な額と言える」。退職後は講演料などもあり、目減りしなかった。ところが、銀行の利率が引き下げられ、講演の回数も減ると家計の「赤字」が増加するようになる。利率はさらに下がり、儀助の預貯金額は2300万円となる。節制し支出を抑えているとはいえ、年の赤字は260万円で、あと9年で金はなくなると試算する。64歳の著者はそこまで考えまい。あくまで約10年後の自分を想定して、儀助の経済を算出してみせたのである。こういう小説はこれまでなかった。
9年経って金がなくなれば(病気、入院は加速させる)、その時は「自裁」と決心している。それならむしろ預貯金が減るのは早いほうがいい。「惚けたり弱ったりすれば自殺する意志や力は失われてしまう。死ぬにも知力体力は必要だ」と考えるのだ。「自裁」の章では具体的な死に方も考察されている。映画ではそこまで踏み込まない。モノローグで儀助の思想を語らせることもしない。
ただ、20年前の、まだ若かった妻が現実のごとく現れ、儀助がそれを愛おしく思ったりするシーンに、彼岸がそんなに遠くないことをうかがわせる。
75歳の元大学教授。妻に先立たれ、子もなく、親しい友人も僅かである。元大学教授としての矜持のもと、過度な贅沢をすることも、節約することもせず生活しているが、収入は僅かであり、貯金が尽きる時には自裁(自殺)することと決めている。
パソコン通信の会議室で書き込まれる「敵」の来襲は、一種の願望かもしれない。自ら手を下すのではなく、外部からの暴力による死。避けようもない「死」ならばそれは楽である。恐怖や痛みは一瞬であろう。
最後の章は「春雨」。ガラス戸の中から、食堂の縁側に正座し「音もなく静かに雨が降っている」のをじっと眺めている。「この雨があがれば春になる。そしてまた皆に逢えるかもしれない」。性欲を含め、つねに考える女性である菅井歩美や鷹司靖子。儀助の身辺を気遣う椛島光則や松方己八もいる。希望を持ちながらの儀助の終焉だ。
『敵』では漢字によるオノマトペが繰り返されるが、最後も「使徒使徒」「死都死都」「歩取り」と、雨の「しとしと」と「ほとり(ぽとり?)」が漢字変換され、白いページに映像のごとく分散され、小説は終わる。「死」の絵画的イメージ化であろう。
喪失の集大成が「死」である。原作が出た1998年に41歳だった私はこの小説をスルーした。そして映画を観たことをきっかけに68歳になった私はこれを読んだ。この意味合いはまったく違うなあ、と今考えているところである。
(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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