
簔助さんは六十一歳で人間国宝となり、その四年後に脳出血を発症した。一九九八年の暮れ、大阪国立文楽劇場では『仮名手本忠臣蔵』の通しが上演されており、簔助さんは「七段目」の遊女おかるを遣っていた。その日、仁左衛門さんが見物のあとに楽屋を訪問することになっていたので、取り分け張り切って汗をかき、さっと流しに楽屋風呂に行ったきり、仁左衛門さんを待たしてなかなか戻らない。お弟子が見に行ってみると師匠がそこに倒れていて、楽屋中が大騒ぎになったという。
それでも簔助さんはリハビリの並外れた努力によって、早くも翌年の夏には復帰を果たす。
桐竹勘十郎さんが言う。
「師匠は日頃、『いい見本ならここにあるよ、できる人なら教えるけれども、まあできないやろ』って、優しいのか厳しいのかわからないことをおっしゃってる人ですが、大病をなさってもまた違う形で高みに行ってしまいますから、これは生涯追いつけません。どこが違うんやろ、と思いますけどね」
簔助さんは復帰を果たすと、間もなくこの一番弟子、吉田簔太郎の三代目桐竹勘十郎襲名を急ぎだす。歌舞伎界と違って文楽は世襲制ではなく、弟子の中で最も実力のある者が師匠の名を継ぐ。二代目勘十郎の下には実子の勘十郎さんより年長のお弟子の存在もあった。
それでも簔助さんは三代目勘十郎に愛弟子簔太郎を強く推して、幹部たちの了解を取る。
「私はその頃五十歳で、まだそれほど大きな役もついてなかった女方遣いでしたし、大きな立役の人形を遣うのを得意とした父の名を継ぐなんて、思いも寄らなかったです。それでも師匠の気持ちは変らず、披露狂言は『絵本太閤記』「尼ヶ崎の段」と決めて、まず先代の吉田玉男師匠のところへ私を連れてって、『これに光秀を遣わせますのでよろしく』って挨拶したら『えっ‼』って、とてもびっくりされてました(笑)」
私はその襲名披露の「口上」を東京の国立劇場で観たが、並居る大幹部たちの淀みない挨拶に続いて、最後に簔助さんとなった時、不自由な口跡に弾みをつけるようにして、「三代目桐竹勘十郎を、よろしく、お願い申し上げます」とこれだけ言い終えた時は、満場に感動の拍手がしばらく鳴り止まなかった。
師弟の絆って、これほど強く、美しいものなのかと、しみじみ思ったものだった。
ここで勘十郎さんが師匠を思うエピソードをいくつか紹介する。
まずは、簔助さんが『累』を遣う時に、その厄除けのため、師弟が茨城県の水海道の近くにある法蔵寺に累のお墓参りに行った時のこと。勘十郎さんが言う。
「翌日の舞台稽古。うちの師匠の累と先代玉男師匠の与右衛門の立廻りで、師匠がパッと回した傘が私の左の眼に当りました。私は左(手)を遣ってて、稽古やから頭巾かぶってなくて、まともに当たったんですね。また、同時に足遣いがドーンと強く踏んだ足拍子が私の左足を踏んだんです。怪我をしたのが累と同じ左目と左足でゾッとしましたけど、あ、これで師匠の代りに厄を果たした、と思いましたね」
こんなふうに普通、思えるものだろうか。
また、簔助さんが八十七歳で引退を決めて、その披露の演目が『国性爺合戦』。錦祥女を遣う、と聞いた。勘十郎さんは、中国の妃のキラキラした瓔珞という冠の重さを少しでも軽減しようと並々ならぬ努力をする。
「二百いくつかある細かい部品を、プラスチックと薄いアルミ缶で作って組立てました。元の真鍮製のは二百五十グラムだったのが、九十三グラムに減った。その経緯を誰かが師匠に言うたらしくて、三日目くらいに挨拶に行ったら、楽屋に置いてある瓔珞をこう、指さして、にこっと笑ってくれはって……」
二百以上もある細かい部品を作って組立てるのに、勘十郎さんは幾晩、眠る時間を削ったのだろうか。
簔助師匠の引退から三か月後に、勘十郎さんも人間国宝の指定を受けた。
「一番に師匠に電話しました。おめでとうおめでとうおめでとう……五連発でした」
私が簔助さんに最後にお会いしたのは、もうずいぶん前のことになる。毎日新聞の書評欄「好きなもの」というコラムの取材を、私が逢いたい人に逢うために、時々買って出ていたころのこと。
簔助さんのお口が不自由になってからは取材はお引き受けにならないようだったが、この時は国立小劇場の楽屋で、特別に逢ってくださった。
若いお弟子さんの助けを借りて語られる師匠の好きなもの三つの中に、新潟の六日町温泉、いつか雑誌の「雪見の宿」のグラビアで見て以来ご贔屓だという旅館があった。
簔助さんの紹介とあって、私はその宿の女将と親しくなって通ったが、経営者が変ってからは行かなくなった。
そんなこんなを含めて、簔助さんがなつかしい。

文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。
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