第三十回 井上芳雄さん
 井上芳雄の舞台を初めて観たのは、二〇〇七年、井上ひさし作『ロマンス』の若きチェーホフ役だった。私は井上ひさし芝居は恵比寿のテアトル・エコー時代『日本人のへそ』(一九六九年)の初演からずっと、ほとんどの作品を観ていて、『ロマンス』はその五十数本目に当る。そのあとの四本目、井上ひさしの遺作となった『組曲虐殺』の小林多喜二役の井上芳雄も当然観ている。井上先生の没後に『イーハトーボの劇列車』や『日本人のへそ』の再演にも井上さんは出ていたらしいが、残念ながらこれは観ていない。
 それで『ロマンス』で初めて井上芳雄の舞台を観て、まずその清潔で透明感のある爽やかな雰囲気に驚き、それから堂々たるその歌唱にもびっくりさせられた。
 最近、井上先生のご長女、都さんから聞くところによると、最初の舞台稽古に立ち会って初めてその歌声を聴いた時、あまりの素晴しさに驚いて、すぐに電話でその圧倒的な歌唱力を書斎の父上に報告したということだ。
 この『ロマンス』という芝居は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフを年代順に井上芳雄、生瀬勝久、段田安則、木場勝巳が演じ、妻役の大竹しのぶ、妹役の松たか子は通しで上演したが、思えば贅沢なキャストの舞台だった。
 次の『組曲虐殺』では歌のみごとさは相変らずでも、屈折したプロレタリア作家の役は、どうしてもぴったり来ていなかった。
 それもそのはずで、井上さんの順風満帆過ぎる役者人生には、挫折も屈折もないからだろう。
 福岡市の豊かな家庭に育ち、小学五年の時に観た劇団四季のミュージカル『キャッツ』に魅了され、将来はこの道に進むと決める。そのために東京藝大を受験し、即合格する。在学中の二〇〇〇年に、宝塚歌劇の演出家小池修一郎氏の講座に出ていて、『エリザベート』のオーディションの誘いを受け、みごと皇太子ルドルフ役を射止め、その後はスター街道まっしぐらとなるのだから。

 この五月に井上芳雄インタビューが決まって、その準備のために三月は明治座ストレートプレイの『大地の子』、五月も明治座の和製ミュージカル『アイ・ラブ・坊っちゃん』を観た。
 『大地の子』の中国残留孤児陸一心役の井上芳雄は、見違えるほど大人になっていて充実の舞台だったし、『坊っちゃん』では和服姿の漱石役に回って大人の風格を見せていた。
 そしてインタビュー当日、私には思わぬ出会いがあった。井上さんの所属する株式会社グランアーツの代表、上田祐子さんは、何十年か前の私をよく見知っていたという。
 祐子さんの父上は上田晃……あの「ギャラリー上田」の? といっぺんに遠い昔が甦った。
 上田晃氏とは十七代目勘三郎の楽屋で会った。六代目菊五郎一家が戦争中から戦後にかけて暮らした鎌倉の家は、上田家の別荘だったという話をそこで聞いた。その頃私は六代目菊五郎の娘婿にあたる勘三郎の『楽屋ばなし』執筆中で、これは素晴しい取材先とばかりに度々ギャラリー上田を訪ねることになる。
 祐子さんはその頃、画廊経営見習いとして奥に居たが、ミモレ丈のスカートの裾を翻して笑いながら入ってくる私のことをよく憶えているという。
 祐子さんの記憶にある映像から、昔の私の姿がまざまざと浮かび、しばし言葉を失った。
 
 祐子さんと私のやり取りを垣間見ていた井上さんが、これ迄どこにも語らなかった自身の家庭の話を率先して話し始める。
 妻となった知念里奈さんとの最初の出会いは〇四年のミュージカル『ミス・サイゴン』での共演で、一〇年の再演で再会、一六年に結婚した。
 「彼女にはすでに長男がいたので、僕が『お父さん』になったのも嬉しかったですね」
 という言葉選びがなんとも優しい。
 「彼は今バレエダンサーの道に進んでいて、自分を表現するという同じアートの道なのが嬉しい」
 とのこと。また次男については、
 「まだ小学生ですが、自分と妻が出る舞台は全部見せてますし、楽屋にも時々連れて行く」
 とのこと。「歌舞伎の人みたいに、ね」と言ってにっこりしたのは、私の得意分野に対するご挨拶か。こまやかな心くばりの人。
 「僕はネガティブなことを言われるのが嫌いなんですが、彼女はいつも褒めてくれるし、一緒にいて心強いです」
 最後に隙を突かれて惚気のろけられた。
 帰りがけ、インタビューの資料として私が持っていた『大地の子』のプログラムの井上さんのポートレートの所に、記念のサインをお願いした。
 井上さんは快く受け取って、何やら文章らしきものを綴る様子。祐子さんと再会を固く約してお二人が去ってからそこを見てみると、
 「お話できて嬉しかったです。ありがとうございました‼ 関様へ」とあって、よく読めないようなサインがあった。
 ほんと、いい人!と思った。


プロフィール
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。