第三十一回 篠田三郎さん
 篠田さんに初めてお会いしたのは、もう半世紀以上も前のこと。光文社の『JJ』という雑誌の取材で渋谷の小さ目のスタジオを訪ねた。
 撮影の区切りがついて現れた篠田さんは、真面目で誠実な人柄そのままの風貌で、質問には言葉を選びながら真面目に応じ、最後には丁寧なお辞儀で見送ってくれた。
 何日かして『JJ』の編集部に行くと、編集長が笑いながら一枚の葉書をヒラヒラさせてこちらを見ている。それは篠田さん自筆の丁寧なご挨拶状で、こんなことは本当に珍らしく、編集長も感じ入ったらしかった。真っ白な私製葉書に黒インクで書かれた「篠田三郎」の律義な署名が今も鮮明に脳裏に残っている。
 その後、篠田さんはテレビの「ウルトラマンタロウ」とかで大ブレークしたらしいけれど、こういうのは私とは全く無縁のジャンルで長くご無沙汰していた。それで私の一方的な再会は、劇団民藝の『八月の鯨』(二〇一三年)を観に行ったら、亡命貴族マラノフ役が何と! 篠田三郎、だった。
 篠田三郎さんにとって、ここが落ち着くのにとてもふさわしい場所と思われて、その民藝デヴューを密かに祝いながら観劇した。
 その後、『SOETSU』『闇にさらわれて』『ある八重子物語』と客演が続き、二〇二〇年から劇団民藝青山事務所に所属となる。
 そこで私は「婦人公論」に連載中の「名優たちの転機」で早速篠田三郎さんに会いに行った。
 篠田さんは「名優」というタイトルに照れながら、それでも三つの転機をきちんとメモに準備した上に、私の著書『虹の脇役』を携えて現われ、
 「中村屋さんのお弟子さんの千彌せんやさんに、前にお世話になったことがあるので、この本で彼のことをよく知るために、読みました」
 とのこと。相変らず真面目な方だと、私は深く感じ入った。
 このインタビューでとても興味深かったのは、文学座の杉村春子さんに可愛がられた話で、芸術座の『木瓜ぼけの花』(八六年)の時のこと。
 「杉村先生の昔の恋人に似てるという若い男の役で、嘘かほんとか杉村先生のご指名だと伺いました」
 そのせいか舞台の声のコントロールからちょっとした仕草まで、細かな指導を受けたという。最初のうちはかなり年配のお方だなと思っていた篠田さんも、だんだん好きになって来て、「先生、今日のダメ出しは?」と甘えると、
「そうそう毎日あるってもんじゃないわよ、あなた」って。
 この口調が往年の杉村春子を彷彿させて、やっぱり篠田さんは名優だと思った。
 
 ある時私は篠田三郎・樫山文枝の「文学の夕べ」という朗読会を聴きに行った。篠田さんは藤沢周平の『山桜』、樫山さんは山本周五郎の『夜の辛夷こぶし』。
 『山桜』は、主人公の野江が不幸な結婚に耐えるある日、かつて縁談を断った相手の弥一郎と山桜の下で再会し、その優しさに深く惹かれる。
 自ら離縁を取った野江が、ある日弥一郎の母親を一人で訪ねるシーンがなんとも静かで深い情愛に満ちていて、それ迄あまり私が味わったことのなかったような清い感動が沸き起った。
 すぐ篠田さんを楽屋に訪ねて、私が聞き手をつとめるトークのゲストに出てくださるように依頼した。そしてできることなら私の著書『日本の鴬―堀口大學聞書き』の一節を朗読して頂きたいと申し出て、篠田さんの快諾を得た。
 
 それからというもの、私はその構成作業に没頭し、若き日の大學先生がスペインで画家のマリー・ローランサンと出逢って、恋に落ちたことの告白に至る経緯と、その実証となる「遠き恋人」という詩の朗読を含む台本が出来上がる。私が一人称で登場する地の文を朗読して篠田さんと「共演」するというのは、実は最初からの目論見だった。優しい篠田さんは台本を見て、そのことも了解してくださった。
 そのトークの会場は池上の實相寺さまの大広間で、篠田さんの追っかけの若者たちからたくさんの応募があったらしい。
 当日、篠田さんは相変わらずの真面目さで、スタートより三時間も前にお寺で会って稽古をしようとのお申し出。私は一時間で充分と思ったけれど、お言葉に従った。
 リハーサルは一回の読み合わせで終り、時間が大幅に余ったので、お寺の中を見学したり、お庭を眺めたり。
 最前列をズラリと占めた例の若者たちはマナーがよくて、静かにトークを聴いてくれた。
 篠田さんが静かな声で演じる老詩人が素晴しく、私は何十年か前の自分に戻って昔の時間を堪能した。
 「先生、いつまでも名のみの老でいらして下さいね」
 「なかなかそうも行かないのでね。ものごとにはすべて終りがある」
 「先生のように素敵な言葉を持つ人がもし恋人だったら、どんなに楽しかったでしょう」
 「遅かった、遅かった……」
 篠田さんの静かで甘やかな低音が、うっとりと聴き入る大広間の人たちの心を優しくつかみ、私は横でこの幸せを噛みしめていた。
 今思ってもあの至福の時間は忘れがたい。

プロフィール
文/関 容子(せき・ようこ)
エッセイスト。東京都生まれ。日本女子大学文学部卒業。雑誌記者を経て、1981年『日本の鶯―—堀口大學聞書き』で日本エッセイスト・クラブ賞、角川短歌愛読者賞受賞。96年『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞。著書に『歌右衛門合せ鏡』『勘三郎伝説』『海老蔵そして團十郎』『舞台の神に愛される男たち』『客席から見染めたひと』『銀座で逢ったひと』『名優が語る 演技と人生』などがある。「婦人公論」にて「名優たちの転機」を連載中。
絵/南 伸坊(みなみ・しんぼう)
イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。 一九四七年東京都生まれ。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校で木村恒久氏、赤瀬川原平氏に学ぶ。雑誌『ガロ』の編集長を経てフリー。 主な著書に『私のイラストレーション史』『ねこはい』『生きてく工夫』『あっという間』など。近著に『仙人の桃』『老後は上機嫌』(池田清彦と共著)『昭和的』(文・関川夏央 絵・南伸坊)。