第二回受賞者決定!〔詩人・小説家の伊藤比呂美さん〕

株式会社春陽堂書店は、信念を貫いた生き方で多くの人びとに感動を与えた文化人・表現者を顕彰する「第二回種田山頭火賞」の受賞者を、詩人・小説家の伊藤比呂美さんに決定いたしました。
授賞式は2019年10月3日(木)、出版クラブホールにて開催され(レポートはこちら)、正賞として、山頭火の生誕地・山口県防府市在住の書家・富永鳩山さんの筆による山頭火の句「ころり寝ころべば青空」が書かれた賞状、副賞として、賞金が贈られました。

【受賞者インタビュー】
10月3日(木)の授賞式に先駆けて、伊藤比呂美さんに受賞の声をお聞きしました。

5月に開催しました選考会では、選考委員である嵐山光三郎さんと林望さんにより、さまざまな分野でご活躍の方々を候補に挙げていただきましたが、詩の分野をリードしながらも、文芸の世界で異彩を放ち続ける伊藤比呂美さんに決定いたしました。伊藤さんは、詩人としてデビュー、子育てエッセーや夫の介護などプライヴェートな体験も赤裸々に表現して、人生相談でも読者を引きつけるなど、多くのジャンルで活躍されています。

                      (C)吉原洋一

【受賞者プロフィール】
伊藤比呂美(いとう・ひろみ) 詩人・作家。1955年生れ。東京都板橋区出身。青山学院大学文学部日本文学科卒業。1978年第16回現代詩手帖賞を受賞してデビュー。
1980年代に『姫』『青梅』『テリトリー論』などで女性詩ブームをリード、『良いおっぱい悪いおっぱい』(冬樹社、集英社文庫、のちに中公文庫より『完全版』 )で子育てエッセイの元祖として活躍。
しばらく詩から遠ざかっていたが、1997年にアメリカに移住、『ラニーニャ』で第21回野間文芸新人賞受賞。『河原荒草』で詩作に復帰して、第36回高見順賞、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』で説経節と現代詩を融合した語り物の世界をつくり、第15回萩原朔太郎賞、第18回紫式部文学賞。
親の介護で日本とアメリカをひんぱんに行き来しながら『読み解き般若心経』 、『たどたどしく声に出して読む歎異抄』『犬心』『父の生きる』などを発表。
2015年第5回早稲田大学坪内逍遙大賞。2018年に日本に帰国し、3年の任期で早稲田大学文学学術院文化構想学部教授。
現在は熊本と東京を行ったり来たりしている。近著に『女の一生』2014 年岩波書店)、『切腹考』2017年文藝春秋)、
『ウマし』2018年中央公論新社)『たそがれてゆく子さん』2018年中央公論新社)『なっちゃんのなつ』2019年福音館書店)など。


種田山頭火賞 とは

漂泊の俳人・種田山頭火の全集や書籍を多く刊行してきた株式会社 春陽堂書店により、創業140年の記念事業として2018年9月13日に「種田山頭火賞」は創設されました。
自然に親しみ酒を愛し、自分の理想を求めて行きつ戻りつしながら信念を貫いた山頭火の生き方は、先行きの不安に縛られて生きる今の時代の私たちに大きなヒントを与えてくれます。
そんな生きざまを彷彿とさせる人を現代に探し顕彰することが本賞の目的です。
選考委員は作家の嵐山光三郎さんと作家・国文学者の林望さん。
昨年実施した第一回の同賞は、舞踏家・俳優として活躍されている麿赤兒さんが受賞されました。


種田山頭火賞 第一回受賞者

麿 赤兒(まろ・あかじ)
1943年奈良県出身。
大駱駝艦主宰・舞踏家・俳優として活躍中。その舞台は力(パワー)とスリルにあふれるシーンの連続で、予定調和に収まることがありません。日本だけでなく海外でも高く評価されています。信念ある生き方が山頭火に重なります。

©白鳥真太郎


種田山頭火賞 第一回 受賞関連記事


“踊る山頭火”に乾杯!

第一回種田山頭火賞受賞 麿赤兒さんより喜びの声!

種田山頭火 関連記事アーカイブ

【連載:山頭火と歩く】

山頭火と歩く 植田莫の世界【8】

山頭火と歩く 植田莫の世界【7】

山頭火と歩く 植田莫の世界【6】

山頭火と歩く 植田莫の世界【5】


山頭火と歩く 植田莫の世界【4】

山頭火と歩く 植田莫の世界【3】

山頭火と歩く 植田莫の世界【2】

山頭火と歩く 植田莫の世界【1】

【インタビュー:山頭火の生まれた町】

山頭火が生まれた町、山口県防府市を旅する【4】「護国寺」住職インタビュー<後編>

山頭火が生まれた町、山口県防府市を旅する【3】「護国寺」住職インタビュー<前編>

山頭火が生まれた町、山口県防府市を旅する【2】「山頭火ふるさと館」館長インタビュー<後編>

山頭火が生まれた町、山口県防府市を旅する【1】「山頭火ふるさと館」館長インタビュー<前編>

種田 山頭火(たねだ・さんとうか)とは


俳人。1882年、山口県防府市に大地主の長男として生まれる。9歳のとき、母が自殺。早大文学科中退。家業の酒造業を営むが破産、家は没落。43歳で出家得度する。行乞放浪の生活を記録した膨大な日記、12000句以上の俳句を遺す。1940年、松山市「一草庵」にて泥酔のまま58歳で亡くなる。