NHK出版 編集局チーフ・エディター 本間理絵


ラジオと春陽堂の知られざる関係とは──
1925年3月22日、日本で初めてのラジオが放送されました。
報道や語学教育などを目的とする傍ら、視聴者を楽しませるための娯楽として作られたのが、ラジオドラマです。そのラジオドラマに、春陽堂書店がどのような関わりをもっていたのか。全4回に分けて、ラジオドラマと春陽堂の知られざる関係を紹介していきます。


メディアミックスの効果
昨今であれば小説がテレビドラマ化や映画化されて大ヒットした場合、その相乗効果で原作小説もベストセラーになることが少なくない。では戦前において、小説のラジオドラマ化は、本の売上にどのような影響があったのだろうか。
実は春陽堂書店の戦前の売上記録は、まったく残っていない。関東大地震と太平洋戦争で日本橋の社屋が全焼した際に、帳簿も消失してしまったのである。

写真1 日本橋にあった春陽堂書店社屋(明治39年)。日露戦争後に制定された海軍記念日を祝う看板が、時代の趨勢を示している。

このため戦前に同社が行ったラジオドラマとのメディアミックスも、その相乗効果のほどはわからない。ラジオ黎明期はリスナーも4万5000人と少なく、聴取可能地域も限局的だったことや、当時の書籍の初版部数は1500~2000部ほどしかなく、放送・出版ともに市場規模が小さかったことを考えると、メディアミックスという構想自体は革新的だったが、時期尚早で、思ったほど大きな効果は得られなかったのではないかと推測される。
戦中のラジオ放送
ラジオが本格的に影響力を発揮するのは、昭和12(1937)年、日中戦争が始まって以降のことだ。安価な受信機が国民の戦意発揚のために大量販売されて、ラジオは全国の農村地帯にも行き渡り、昭和13(1938)年には、聴取契約者は350万人に膨らんだ。
銃後の家族たちは、出征中の父や兄の安否を気づかい、中国大陸の戦地で何が起こっているのか少しでも知るために、ラジオの戦況ニュースを求めた。
太平洋戦争中の昭和19(1944)年には、聴取契約者は740万人に膨らんだ。その時期であれば、出版とラジオドラマのメディアミックスによる相乗効果が期待できたであろう。
だがその頃には、久保田万太郎も放送局を退職し、春陽堂も新潮社や中央公論社、文藝春秋等の新興出版社に、文芸出版の雄としての座を奪われていた。かつて小説作家の檜舞台といえば春陽堂の『新小説』と博文館の『文芸倶楽部』であったが、いつの間にかそれは『中央公論』や『新潮』に移行していたのである。
日中戦争以降のラジオドラマ
さて、日中戦争以降も、ラジオドラマは盛況だった。昭和14(1939)年から終戦の昭和20(1945)年までに、ラジオドラマは800回近く放送されている。
その頃人気だったのは、下母澤寛の『新撰組』(昭和11[1936]年4月19日放送、原作は万里閣書房刊)、山本周五郎の『赤穂浪士』(昭和12[1937]年9月28日放送、原作は改造社刊)や、岡本綺堂の『半七捕物帳』シリーズ「鬼娘」「むらさき鯉」(昭和15[1940]年8月7、8日放送、原作は平和出版社)などの時代小説のドラマ化作品である。昭和10年代は、江戸川乱歩の『怪人二十面相』のヒットで探偵小説ブームが到来したため、久生十蘭、甲賀三郎らによる探偵小説も数多くドラマ化された。

写真2 明治40年刊行『虞美人草』(春陽堂)の装丁。

春陽堂が得意とした明治期の文豪作品のドラマ化は徐々に減っていった。わずかに芥川龍之介の「犬と笛」(昭和16[1941]年1月17日放送)や夏目漱石の「虞美人草」(昭和17[1942]年3月29日放送)、かつてのドラマが何回か再放送されたくらいである。
なお、『虞美人草』は、明治40年に朝日新聞社に入社した漱石が、入社後第一作として手掛けた連載小説で、美人で聡明なヒロイン藤尾にあやかって虞美人草浴衣や虞美人草指輪が売り出されるなど、当時の女性たちの間でブームとなった。
銃後のラジオドラマ
戦時期のラジオドラマの特徴は、従軍作家や帰還作家による戦争小説のドラマ化作品がもてはやされたことである。当時放送局の文芸課員であった坂本朝一(のちのNHK会長)も、「(昭和16[1941]年頃は)ラジオドラマの作家が何となく固定して、一種の動脈硬化になりかけていた頃でもあった」と戦後に述べている。
戦時中はニュースだけでなく、子供向け番組や婦人向け番組、語学講座、学校放送などすべてのラジオ番組が、戦争宣伝のために動員された。ラジオドラマだって例外ではなかったのである。
戦意高揚のための大掛かりなキャンペーンドラマが増えていった。「皇紀2600年記念番組」(昭和15[1940]年)と銘打った「肇国」や「満州拓士の父」などの国史劇特集や、「航空記念日」等にちなんだ懸賞小説の公募(昭和16[1941]年)がその一例である。
小説のドラマ化よりも、戦意高揚を意図したオリジナルドラマが重宝された。自由に創作できるオリジナルドラマは、時局連動の役割を担わせやすいからである。

写真3 国民精神総動員大演説会(昭和12年9月)の様子。演説会は壇上のマイクを通して、ラジオでも放送されていた。(日本放送協会 編『ラヂオ年鑑 昭和13年』[国立国会図書館デジタルコレクション]より)

プロパガンダ化するラジオ
出征兵や上官兵、銃後を守る家族らのセリフの随所に、「戦意高揚」を意図した表現がちりばめられるという方法で、ラジオドラマは戦争プロパガンダの役目を担わされた。
「佐久間艇長」(昭和17[1942]年4月15日放送)では、沈みゆく潜水艦のなかで上官に自刃を迫られた部下が、
「いつでも喜んで死に場所を探している。死ねと一言大きな声で言ってください」
と声を張り上げる。若いヒロインたちは街頭で千人針を縫い、戦地の兄に慰問袋を届け、銃後の母たちは、南方に出征する息子を笑顔で送り出した。
「御盾」(山岡荘八原作、昭和20[1945]年1月6日放送)や「ほんぶ日記」(上田廣原作、昭和16[1941]年7月10日放送)などの戦場ドラマでは、戦地や軍隊の臨場感を出すために、派手な銃声や爆撃音、飛行機のプロペラの音などがふんだんに挿入された。
国民の人気が高く、意のままに創作・演出できるラジオドラマは、国や放送局にとっては、国民教化のための最適な道具であったのである。

戦後長きにわたり、テレビドラマが娯楽の花形として君臨している。人気ドラマの主題歌が街に流れ、原作がヒットし、出演者や撮影舞台地が連日メディアを賑わせる。その原型となった戦前のラジオドラマと春陽堂の関わりを4回にわたってお送りした。ご高覧ありがとうございました。
<参考文献>
遠藤織枝他『戦時中の話しことば ラジオ台本から』(ひつじ書房、2004年)
日本放送協会編『NHK放送劇選集』1~3巻(日本放送協会、1957年)
日本放送協会編『日本放送史』(上)(日本放送出版協会、1965年)

この記事を書いた人
文/本間理絵(ほんま・りえ)
1960年、神奈川県生まれ。出版社勤務。著筆に「近代メディアミックスの形成過程~春陽堂書店とラヂオドラマ研究会との連携を中心に」(『出版研究』48、出版ニュース社)、「ラジオテキスト『国民学校放送』にみる戦時の学校放送の近代性」(同46)、「日中戦争時のラジオテキスト『支那語講座』に関する一考察」(同42)などがある。