芥川と菊池寛、編集顧問になる

流通経済大学准教授 乾英治郎

 芥川龍之介は1924(大正13)年1月、菊池寛と共に春陽堂の文芸雑誌『新小説』(第2期)の編集顧問に就任する。花形作家2人を顧問に迎えた『新小説』は、様々な誌面改革を行う。それは、やがて終刊を迎えることになる同誌の最後の輝きであった──。今回は、芥川と菊池の交流に触れつつ、伝統ある雑誌『新小説』が長い休止期間を迎えるまでの様子を伝える。


関東大震災後の『新小説』──芥川・菊池の誌面改革
『新小説』1923(大正12)年8月号に、「『新小説』編集改新 菊池・芥川両氏を顧問として」と題された、次のような告知文が掲載された。
「新小説」は九月号より菊池寛氏、芥川龍之介氏を編集顧問として迎へ、その指導のもとに従来の編集方針を一変し、純真撥溂はつらつたる純文芸作品を提供すると同時に、紙面の大部分を割きて高級なる興味中心の読物を満載する事にしました。(以下略)
 芥川は、『新小説』の編集顧問を務めていた小説家・鈴木三重吉の推奨によって「芋粥」(1916・9)を同誌に発表し、商業誌デビューを飾っている(詳細は本連載(1)を参照のこと)。それから7年が経ち、かつての三重吉の役割をいよいよ芥川自身が担うことになったのである。

1924(大正13)年の芥川龍之介、田端の書斎にて。

 菊池寛は、芥川にとっては第一高等学校(旧制)以来の親友であり、同人誌『新思潮』(第3次、第4次)を共に立ち上げた文学仲間でもある。「父帰る」などの戯曲、「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」を始めとする短編小説で文壇の地位を確立した後、芥川の勧めで大阪毎日新聞社の客員社員となり、1920(大正9)年に『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載した通俗長編小説「真珠夫人」で一躍流行作家となった。
 1923(大正12)年1月に文藝春秋社を立ち上げ、雑誌『文藝春秋』を創刊した。毎号の巻頭を、芥川の短文「侏儒しゅじゅの言葉」が飾っていることが、売りの一つになっていた。
 ちなみに、『文藝春秋』は創刊から1925(大正14)年末まで、春陽堂が販売を担っていた。そのため、春陽堂社内では『新小説』の「姉妹雑誌」という扱いだったようだ(『新小説』1924年7月号の編集後記に、こうした表現が見られる)。

菊池寛(撮影年次未詳)

 当代きっての花形作家2人を編集顧問に迎えることを高らかに宣言した『新小説』であったが、約束の9月号が刊行されることはなかった。9月1日に関東大震災が発生し、日本橋にあった春陽堂の社屋が倒壊したためである。それから同年12月まで、『新小説』は休刊を余儀なくされてしまう。
 芥川と菊池寛が『新小説』編集顧問に就任するのは、実質的には同誌の刊行が再開された1924(大正13)年からである。同年1月号には「挨拶」と銘打ち、次のような文章が掲げられている。
這般しゃはんの大震災禍のため、一時休刊致居候本誌は、今回菊池寛、芥川龍之介両氏を顧問として、面目をあらため、復興するの幸運に接するに至り候、今後大いに清雅高級の趣味滋養に努むるの覚悟に候間、何卒倍旧の御好意を賜はり度く願上候。

『新小説』1923(大正12)年8 月号に記載された「編集改新」
と1924(大正13)年1 月号に掲載された「挨拶」

 震災後の『新小説』の最大の特徴は、大衆文学作家の積極的な登用にある。長谷川伸・白井喬二・直木三十三(=三十五)・佐々木味津三みつぞう・国枝史郎らによる時代小説が、挟み込みの別誌(本誌とは別に頁数がカウントされている)に掲載されるようになった。これらの小説が、「卑俗なる講談」とは一線を画した「高級なる興味中心の読物」であることが、各号の編集後記で再三強調されている。
 同時期には、『読物文芸叢書』(1924~25)が春陽堂から刊行されている。「読物文芸」とは「新講談」「大衆文学」などと同様に、娯楽性の高い時代小説を意味する言葉で、菊池寛が提唱したものである(「大衆文学」は、広義には現代小説も含むが、狭義には時代小説を意味する言葉としても用いられた)。
 純文学主体の雑誌であった『新小説』に大衆娯楽小説を導入したのは、編集顧問としての菊池の功績であろう。
『文藝春秋』1924年2月号に掲載された『新小説』の広告には、「芥川龍之介氏、菊池寛氏、本誌のため死力を尽くせり」とある。しかし、芥川本人は知人宛の書簡の中で次のように述べている。
実は菊池や小生の春陽堂の編集顧問と言ふのは少くとも小生のは名ばかりにて出張もしなければ相談にも来ないのです。 (薄田泣菫宛書簡、1924・11・24付)
 この言葉の中に、芥川一流の韜晦とうかいが含まれていたとしても、春陽堂内での活動の実態が明らかになっていない以上、名目上の編集顧問であった可能性も否めない。『新小説』1924年10月号の編集後記には、随筆欄の充実に向けて「追ひ追ひ、菊池寛、芥川龍之介氏の選になるものを掲げて行くつもりである」とあるが、実現された形跡はない。
 ただし、芥川が編集顧問に名を連ねてから、『新小説』に一つの変化が生まれている。それは、平山蘆江ろこう・田中貢太郎・岡本綺堂らによる怪談系の読み物の増加である。

『新小説』と「怪談会」
 1924(大正13)年3月、田端の懐石料理店「天然自笑軒」にて、『新小説』主催の怪談会が催された。馬場孤蝶・久保田万太郎・平山蘆江・畑耕一・芥川龍之介・泉鏡花・白井喬二・長谷川伸・長田秀雄・菊池寛といった著名な文士が一堂に会して、各々が知る怪談話を座談会形式で披露したのである。
 この時の様子は、『新小説』1924年4月号および5月号に「怪談会」として活字化されている。掲載号の編集後記によれば、第2回目の怪談会開催も視野に入れていたようだ。

「怪談会」が掲載された『新小説』1924(大正13)年4月号

 『新小説』には、怪談会の伝統があった。1911(明治44)年12月号に「怪談百物語」と銘打たれた記事が載るが、これは柳田國男・水野葉舟ようしゅうら総勢22名の文化人による怪談会の記録であった。キーパーソンになったのは、「おばけずき」の文豪・泉鏡花である。当時、春陽堂の社員として『新小説』の編集に参加していた。なお、鏡花が出席した「怪談百物語」「怪談会」は、東雅夫編『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店、2020)でまとめて読むことができる。
 では大正期の『新小説』において「怪談会」のキーパーソンになったのは誰か。
 ひとりは菊池寛である。現実的な合理主義者と思われがちであるが、『新小説』に「本朝綺談選」(1924・1~3)を連載し、江戸時代の怪談集「御伽百物語」中の逸話を紹介している。『文藝春秋』でも、柳田國男や芥川らによる座談会形式の怪談会「銷夏しょうか奇談」(1927・7)を開催し、自ら司会を務めている。
 ちなみに「座談会」という言葉は菊池の発案とされ、初出は『文藝春秋』1927(昭和2)年3月号というのが定説であるが、『新小説』の「怪談会」掲載号の「編集後記」の中でも「座談会」という表現が用いられている。
 そしてもうひとりは、言うまでもなく芥川である。高校時代に、家族や友人からの聞き書きや文献からの引用を1冊のノートにまとめた私家版の怪談集「椒図しょうず志異しい」(「椒図」の読み方については諸説ある)を編んだほどの怪談マニアであった。

『椒図志異』(画像は復刻版。ひまわり社、1955)と、芥川自筆の天狗のスケッチ。

 1924年の「怪談会」の会場である「天然自笑軒」は、芥川の自宅の近所にあった(妻・文との結婚披露宴の会場でもあった)。また、文士が大半を占める参加者の中に、田端在住の洋画家・小杉未醒(=小杉放菴)が混じっているのは、近所付き合いのあった芥川に誘われた可能性が高い。
 「怪談会」の企画に芥川がどの程度まで関与したのかは不明であるが、会場が芥川の生活圏内である以上は、全くの蚊帳の外であったとも考えにくい。「怪談会」の企画は勿論のこと、『新小説』の創作欄における怪談文芸の充実にも芥川が一役買っていたことは、大いに考えられるのである。

『新小説』休刊
 菊池と芥川が『新小説』の編集顧問を務めたのは、『文藝春秋三十五年史稿』(文藝春秋新社、1959)の「年譜」によれば、1925(大正14)年2月号までとのことである。
 この間、『新小説』の編集にあたった斎藤龍太郎・鈴木氏亨しこうは、いずれも『文藝春秋』の編集同人である。恐らく、菊池を始めとする『文藝春秋』同人に春陽堂が『新小説』の編集を委託していた、というのが実態だったのだろう。
 文芸評論家の中村武羅夫むらおは、「文芸雑誌のこと」(『文壇随筆』新潮社、1925)という随筆の中で、「菊池、芥川の二氏が顧問格──といふよりも菊池氏の如きは、実際に編輯上の実権を握つて居た『新小説』は、今後両氏の手を離れて、娯楽雑誌になるとか、或は、ずつと調子を下げた、投書雑誌にするとかいふ噂がある」と前置きした上で、「出版界に於いて古い歴史を有する春陽堂に取つて『新小説』は大事な看板だ。春陽堂といふものがある限りは、この看板を引つ込めたり、余りへんな色に塗り変へてはならないと思う」との見解を示している。
 しかし、こうした中村の訴えも空しく、『新小説』(第2期、1896年創刊)は1926(大正15)年11月号をもって終刊となる。1927(昭和2)年1月には誌名を『黒潮』に改めて再出発を果たすが、僅か3号で廃刊になってしまう。第1期創刊(1889)から数えて38年目にして、春陽堂の看板雑誌の歴史は、長らく休止することとなった。『新小説』という誌名が復活するのは、戦後の一時期に刊行された第3期(1946~50)を待たねばならない。

『新小説』(大正15年11月号)と『黒潮』創刊号(大正16年1月号)

 芥川・菊池の編集顧問就任は、戦前期の『新小説』にとって最後の輝かしいイベントだったことになる。この時期に形成された大衆文学作家とのコネクションは、その後の春陽堂の方向性──春陽文庫に代表される大衆娯楽路線の土壌となっているのかもしれない。
 本稿を終えるにあたり、芥川と菊池の友情の行方について、簡単に触れておこう。
 1927(昭和2)年7月24日未明、田端の自宅にて芥川は服毒自殺を遂げる。駆け付けた菊池は、遺体の枕元で号泣した。葬儀では友人総代として弔辞を読み上げたが、悲しみで胸が詰まり、「友よ、安らかに眠れ!」の後は言葉にならなかったという。
 菊池は『文藝春秋』の同年9月号を「芥川龍之介追悼号」としたほか、1935(昭和10)年には芥川の名を冠した文学賞「芥川龍之介賞」を創設して、長年の友情に報いた。

1934(昭和9)年に開催された、故・芥川龍之介を偲ぶ会(河童忌)。
天然自笑軒にて(左端が菊池寛)。

 芥川の春陽堂における最後の仕事は、『鏡花全集』(1925~27、全15巻)の編集である。泉鏡花と芥川の交流については、次回紹介したい。

『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
~空前の怪談会ブームのいま、よみがえる大いなる原点の書!
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の一冊!

この記事を書いた人
乾 英治郎(いぬい・えいじろう)
神奈川県生まれ。流通経済大学准教授(専門は日本近現代文学)、国際芥川龍之介学会理事。
著書に『評伝永井龍男─芥川賞・直木賞の育ての親』(青山ライフ出版、2017)、共著に 松本和也編『テクスト分析入門』(ひつじ書房、2016)、庄司達也編『芥川龍之介ハンドブック』(鼎書房、2015)等がある。