世界各国を撮影で飛び回る動物写真家の井村淳がおおくりしている、極寒の地に生きる「タテゴトアザラシ」特集の2回目。カナダ東部のセントローレンス湾に位置するマドレーヌ諸島近辺の氷上で撮影した、愛くるしいアザラシの赤ちゃんの写真とともに、厳しい環境下での撮影秘話を教えてくれた。
タテゴトアザラシの赤ちゃんは、生まれたときは全長90センチくらいで体重が10キロ程度ですが、おっぱいを飲み1日に2キロずつ増えて生後10日で30キロ程度になります。体格は、たくさんの脂肪を蓄えることで、生まれたときに頭と胴体の間にあったくびれがなくなり全体的にボテッと大福のようになります。
僕は生まれて数日までのくびれがあるフォルムが好きですが、アザラシが好きな人たちの中でも生後10日ほどのパンパンな子が好きなど、好みは分かれます。
アザラシは水中で狩りをするので、氷の上では(水から上がると)水中ほど目がよく見えません。アザラシの赤ちゃんは、動くものはみなお母さんかもしれないと判断して近づいていきます。嗅覚が良く、においで親子の判断をします。
僕が氷上で寝転がって撮影をしていると、アザラシの赤ちゃんが接近してきます。どこまで近づいてくるのかと様子を見ていると、カメラレンズのフードに触れるくらいまで接近してクンクンとにおいの確認をして、お母さんじゃないことに気がついた途端、くるりと180度転回して一目散に離れていきます。「そんなに嫌わなくても……」とちょっと傷つくくらいの反応です。
お母さんアザラシはというと、第1回でも述べましたが、子供を置いてその場から離れていき、出入りする氷の穴から顔を出してはこちらを見ています。たまに、意を決したお母さんアザラシがカツカツカツカツと氷に爪をたてる音と共に僕のほうに近づいてくることがあります。
寝転がっている僕から見ると巨大な怪獣が襲ってくる感じがしますが、ある程度まで接近してくると「やめた」と帰ってしまいます。
氷の上ではアザラシはかなりの速さで移動できますが、普通の人はそうもいきません。氷の上に雪が積もっていれば滑らないのですが、風が吹くと、スケートリンクのようによく滑る氷がむき出しになってしまいます。
雪が滑らないからといって走ると、雪で覆われた穴に気がつかず、ズボッと片足だけはまることもあります。0.4秒以内にもう片方の足をついて引き抜けば、ブーツの中までの浸水はまぬがれます。ブーツの中に水が入ると、そのあとは気持ち悪いだけではなく、足が冷えて辛くなることもあります。
僕は今まで、氷の穴にズボッと落ちたことはありません。しかし、これも前回述べましたが「著名なカメラマンはみんな一度は落ちてるよ」と言われた言葉が頭の片隅にあり、僕は写真家としてまだまだかぁと思いつつ、絶対落ちるもんかと落ちないでい続けていることに一人ほくそ笑んでいました。
あるとき、アザラシの赤ちゃんを撮影しているとメモリーカードの残量が少なくなり、近くに置いておいたカメラバッグのところに新たなカードを取りにいき、カードを右手にカメラを左手に持ったまま、急いで赤ちゃんのところへ戻るとき、足もとを見ずにアザラシばかりを見ていたので、気がつかず氷のゆるいところを歩いてしまいました。薄氷の下に海水がありまた下に氷という、一見ヤバそうに見えないところでした。
気がついたときには両足とも太ももくらいまで海中に浸っていて、その後、徐々におへそくらいまで沈みました。カメラとカードを濡らさないようにバンザイした状態で硬い氷に上体を伸ばし、カメラを放り投げカードを口にくわえました。
この日は天気が良く、撮影中は暖かくてムスタングスーツの前のファスナーを開けていたので、おへその辺りから冷たい海水がドボドボとスーツの内側に入り込んできました。いくつかの薄い氷の層のおかげで、それ以上は沈まず、なんとか自力で脱出できました。
海水に浸ったことがガイドにばれるとヘリに戻るように言われてしまうので、報告せずにそのまま撮影を続けることにしました。ウエットスーツと同じような状態で、海水が入り込んだ瞬間は冷たいものの、あとは体温で温まり冷たくはありませんでした。ただ、その日は風もなく晴天であったから冷たさを感じなかっただけで、悪天候であったら凍傷や低体温症になることもあるので、絶対にしてはいけないことだと反省しました。
皆さんももし、氷の海に落ちたらすぐに戻って着替えてください。
タテゴトアザラシの赤ちゃんは生後2週間くらいで白い毛が抜け始めます。換毛期は、かゆいのか手の届くところがちょうど目の上あたりで、そこだけが黒く太い眉毛のように毛が抜けている子に出会うことがあります。また、口の周りの黒いところが他のより広く、濃いヒゲのような模様になっている子もいます。
かわいい子やぶさかわな子、たんにブサイクな……。
アザラシは生後10日を過ぎたころから泳ぎ始めます。大陸のように広がる流氷の端でお母さんが海の中に入り、潜ったり顔を出したりを繰り返して赤ちゃんを誘っているようです。
赤ちゃんは、潜ったお母さんを探すように氷の際から海中を覗き込んでいるうちに滑り落ちるように海に入ります。
初めは驚いてバタバタしながら氷に上がりますが、何度か繰り返しているうちに泳げるようになります。赤ちゃんはたくさんの脂肪がついているため浮力が大きく、海の中に潜ることはまだできません。
泳いだ後は疲れるのでしょう、おっぱいを飲んで寝ます。犬のように濡れた体をブルブルすることはなく、自然に乾かします。寒くないのだろうか、と心配になります。
タテゴトアザラシの赤ちゃんは基本的には1頭ずつしか生まれません。双子で生まれることはないと言われています。
氷の上で2頭の赤ちゃんが近くにいてもお母さんは別々です。お母さんアザラシが近づいてきて、2頭の赤ちゃんが寄っていくと、どちらかの子は追い払われます。ときには流血するほど強く追い払われ、それで命を落とすこともあります。お母さんがおっぱいをあげるのは自分の子だけなのです。
白い赤ちゃんが近くにいないのに、大人のアザラシがたむろしていることがあります。それは、オスの成獣で、メスが子育てを終えるのを待っています。2週間の子育てが終わるとお母さんアザラシは子離れをします。オスのアザラシたちは、そこを狙っています。交尾が成功するとメスのアザラシは、来年の同じ時期に出産しに戻ってきます。
次回、カナダ編最終回。
≪≪著書紹介≫≫
『あざらしたまご』(春陽堂書店)井村 淳(著)
生まれてから、母親がそっといなくなる2週間後までのあざらしの姿をおさめた写真集。あざらしの愛くるしい寝顔や行動、見守る母親の姿が満載。様々なあざらしの仲間を表現した卵絵や、あざらしの4コマ漫画も掲載。
生まれてから、母親がそっといなくなる2週間後までのあざらしの姿をおさめた写真集。あざらしの愛くるしい寝顔や行動、見守る母親の姿が満載。様々なあざらしの仲間を表現した卵絵や、あざらしの4コマ漫画も掲載。
┃この記事を書いた人
井村 淳(いむら・じゅん)
1971年、神奈川県生まれ。日本写真芸術専門学校卒業。風景写真家、竹内敏信氏の助手を経てフリーになる。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。チーター保護基金ジャパン(CCFJ)名誉会員。主な著書に『流氷の天使』(春陽堂書店)、『大地の鼓動 HEARTBEAT OF SVANNA——井村淳動物写真集』(出版芸術社)など。
井村 淳HP『J’s WORD』http://www.jun-imura.com/
井村 淳HP『J’s WORD』http://www.jun-imura.com/