第3回 稀代の意匠家・小村雪岱の登場

泉鏡花記念館 学芸員 穴倉 玉日(あなくら・たまき)

日本の浪漫主義文学、幻想文学を代表する作家・泉鏡花。彼は師である尾崎紅葉の紹介をきっかけに春陽堂から書籍を刊行するようになり、やがて社員として雑誌「新小説」の編集などにも携わるようになりました。
本連載では、泉鏡花と春陽堂書店の関係を、そして〝鏡花本〟とよばれる装幀と挿絵の美しい書籍の紹介、絵師たちとの関わりを紹介していきます。


絵筆の門人
 明治期の鏡花本を支えた二大巨頭が鏑木清方(かぶらき・きよたか)・鰭崎英朋(ひれざき・えいほう)だとすれば、大正期以降の大看板は小村雪岱(こむら・せったい)として異論はないでしょう。
〈私は鏡花門人ですよ、絵筆で鏡花直伝の文章を書くんですよ〉(一門下生「思ひ出話 番町の先生」昭15.12)と語ったという小村雪岱(本名/安並泰助 明治20(1887)年~昭和15(1940)年)【写真①】は、5歳の時に父が没し、6歳で母が小村家から離籍したため父方の叔父に養育され、明治35(1902)年、16歳で東京・日本橋檜物町の書家・安並賢輔宅に学僕として寄宿します。しかし、書家になるのを好まず、画家を志して翌36(1903)年に日本画家の荒木寛畝(あらき・かんぽ)塾に入門、そして明治37(1904)年9月、東京美術学校日本画科選科に入学し、下村観山(しもむら・かんざん)教室に学びました。この東京美術学校在学中に友人から勧められたのがきっかけで鏡花作品を読みあさるようになったといい、明治41(1908)年の卒業制作も「春昼(しゆんちゆう)」と題した、御堂のまわりに蝶が舞う幻想的な絵画であって、鏡花の名作「春昼」「春昼後刻」にインスピレーションを得たものと考えられています。

【写真①】画室の小村雪岱 昭和11(1936)年11月(小村雪岱遺族提供)


装幀家小村雪岱の誕生
 鏡花との出会いは明治42(1909)年頃とされています。医学博士の久保猪之吉の妻で鏡花夫妻とも交流の深い歌人・久保より江を介して鏡花の面識を得、さらに鏡花の紹介で生涯の友となる堀尾成章(ほりお・しげあき)と出会います。成章は後に雪岱の装幀家デビュー作となる鏡花の書き下ろし小説『日本橋』(大3.9)【写真②】の版元・千章館を立ち上げた人物。〝雪岱〟の雅号も、文展への出品に際し〈画号もつけなくつてはといふので、泉先生に御頼みして雪岱といふ名が出来た〉(「小村君」昭15.12)と成章が記すように、名付け親は鏡花その人でした。すでに養家と養子縁組して安並姓となっていた雪岱でしたが、語呂を考え、出生時の旧姓を用いて〝小村雪岱〟としたのです。
こうして、〈百年の知己といつたやうな間柄〉(田島金次郎「友情の人」昭21.3)となったという成章と雪岱、そして鏡花との深まりゆく交流の上に誕生した『日本橋』は、斬新かつ可憐な意匠で評判となり、雪岱は気鋭の装幀家として一躍注目を集めます。

【写真②】『日本橋』表紙と口絵 大正3年(1914)9月


鏡花的幽玄の視覚化
〈総じて泉先生の作物を絵にする仕事は非常に困難で、あの幽玄な風格を表すのは全く困難な業です。〉(「教養のある金沢の樹木」昭8.9)と語った雪岱ですが、『日本橋』以降、雪岱が鏡花本の装幀においていかに頭角を現したか、実際に春陽堂発行の書籍をいくつか辿ってみましょう。
 雪岱が初めて春陽堂の鏡花本を手掛けたのは『日本橋』の翌年の大正4年(1915)6月発行の『鏡花選集』【写真③】。「湯島詣」や「通夜物語」、そして「婦系図」といった鏡花のいわゆる世話物を収録したこの作品集で、雪岱は表見返し【写真④】は「湯島詣」から、裏見返し【写真⑤】は「通夜物語」からそれぞれ一場面を描いています。主要人物を魅惑的に描くことが中心であった清方・英朋の画風とは異なり、物語の空間にただよう予兆や余情、気配を写し出すかのような作風が鏡花作品を愛読する人々を魅了したのか、以降の鏡花本の多くを雪岱が手掛けることとなります。
 なお、春陽堂の鏡花本の多くは三六判(横3寸×縦6寸)と呼ばれるサイズで、着物の袂に入れて持ち運べる大きさであることから袖珍(しゅうちん)本とも称されますが、木版の表紙に天金という、袂に入れて携帯するにはもったいないほどの意匠です。春陽堂以外にも、例えば明治40年代に活動した鏡花の愛読者の懇親会〝鏡花会〟から輩出された新興出版社である千章館や平和出版社の鏡花本も、それぞれ判型は異なりますがやはり雪岱装幀の美麗本を世に送り出しています。

【写真③】『鏡花選集』表紙 大正4年(1915)6月

【写真④】『鏡花選集』表見返し

【写真⑤】『鏡花選集』裏見返し


文字による意匠の新しさ
 雪岱といえば近年、装画や挿画のみならず、独特のタイポグラフィで雪岱デザインを印象づけたことでも注目され、研究が進んでいます。小村雪岱研究家の真田幸治氏の最新の研究報告(「日本古書通信」令和元.5)によれば、木版印刷による宋朝体が源流の一つと考えられる〝雪岱文字〟の最初の使用例として鏡花の「摩耶山記」(「邦楽」大5.6~7)雑誌発表時のタイトル挿画が新たに確認されていますが、〝装幀〟においては、春陽堂から大正6(1917)年12月に刊行された水上瀧太郎(みなかみ・たきたろう)『海上日記』【写真⑥】のタイトル文字以降とされ、その後も洗練を重ねつつ〝独自の文字〟を雪岱装幀の重要な構成要素として用い続け、文字による装幀を確立した点に雪岱の装幀家としての新しさがあったことが指摘されています。
〝雪岱文字〟はもちろん鏡花本においても使用されており、春陽堂発行の『紅梅集』(大7.1)の背【写真⑦】や扉【写真⑧】の書名及び作者名がその最も早い例といえます。
 こうした雪岱独特のスタイルは〝雪岱調〟と称され、雪岱が没後70年を迎えた平成22年(2010)前後に大規模な回顧展が開かれたことによって再評価が進み、今日、群を抜く人気を博しています。

【写真6】『海上日記』の函背と本体背(左)ならびに鏡花夫妻への献辞が掲げられた扉(右) 大正6(1917)年12月 真田幸治氏提供

【写真7】『紅梅集』背 大正7年(1918)1月

【写真8】『紅梅集』扉


外柔内剛の人
 昭和14(1939)年9月7日の鏡花没後に刊行された岩波書店版『鏡花全集』の装幀は、鏡花とは〈刎頸の友〉であった鏑木清方が担当しました。雪岱の装幀家としての抜きん出た才能は、〈泉さんの本の装釘は、小村さんのものが、今まで出来た数にしても、意気のピツタリしたところでも、一番ぬきさしならぬものになつてゐる。〉と清方も認めるところであり、〈私は装釘には自信がない、扉をかくから、外は小村さんに〉と編輯委員の水上瀧太郎に伝えましたが、〈上手下手を申すのではありません〉と決然といわれ、承知するよりほかなかったと語っています(鏑木清方「装釘についてのこと」昭15.5)。鏡花と清方の長年にわたる親交を理由に〈これはあなたがやつて下さらなくてはならないものです〉と言って聞かなかったという雪岱。決して人と争わないながらも〝外柔内剛〟と称された雪岱らしいエピソードです。
 岩波版『鏡花全集』の装幀を清方に托した雪岱は、鏡花の死から約一年後の昭和15(1940)年10月17日に脳溢血で死去(享年54)。現在、雑司ヶ谷霊園で鏡花が眠る泉家の墓石も、雪岱の構成によるものです。
(写真と図は、特に記載がない限り泉鏡花記念館所蔵の作品です。)
この記事を書いた人
穴倉 玉日(あなくら・たまき)
1973年、福井県生まれ。泉鏡花記念館学芸員。共編著に『別冊太陽 泉鏡花 美と幻想の魔術師』(平凡社)、『論集 泉鏡花 第五集』(和泉書院)、『怪異を読む・書く』(国書刊行会)など。また近年は、鏡花作品を原作とする『絵本 化鳥(けちょう)』(国書刊行会)や『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』(エディシオン・トレヴィル)などの画本制作を企画、幅広い年齢層への普及に取り組んでいる。
≪≪関連書籍紹介≫≫
『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の1冊!