日本のミステリー小説を語る際に欠かすことができない作家、江戸川乱歩。
1925年に春陽堂が刊行した『心理試験』は、「二銭銅貨」や「D坂殺人事件」といった
初期作品を収めた、乱歩にとってはじめての創作集でした。
それ以来、春陽堂と乱歩のつながりは強く、多くの書籍を刊行してきました。
1955年には、全16巻の『江戸川乱歩全集』を、
1987年には、装丁を飾った多賀新の銅版画が好評を呼んだ『江戸川乱歩文庫』(全30冊)の刊行もスタートしています。
2015年には、『江戸川乱歩文庫』の中から人気のある13冊をリニューアル版として刊行、2018年からは第二期として、残りの17冊の刊行が始まりました。
ここでは、各文庫の読みどころを紹介していきます。


正夢か? 悪夢か? 乱歩のSF風スパイ小説『偉大なる夢』
江戸川乱歩(春陽堂書店)

戦時下の日本。五十嵐東三いがらしとうぞう博士は、東京・ニューヨーク間を5時間で飛行可能な夢の新型航空動力を発明する。その秘密設計班の中に、アメリカ大統領・ルーズベルトの密命を受けたスパイが潜入していた。そして遂に、研究ノートは奪われ、博士にも魔手が迫る。「世紀の怪物」と呼ばれるスパイの意外な正体とは。そして、ペリー来航に端を発する大陰謀とは何か──。
『偉大なる夢』は太平洋戦争末期の1943年から1944年にかけて連載された「防諜長編小説」(雑誌掲載予告文)、つまりはスパイ小説である。アメリカを残虐非道の敵として描き、これと戦う日本人の科学力や精神力の偉大さを称揚するといった、典型的な「国策小説」となっている(乱歩がこうした小説を書くに至った経緯については、落合教幸氏による本書の「解説」に詳しい)。そのため、乱歩は生前にはこの小説をいかなる単行本・全集にも収めなかった。いわば作者自身による封印作品なのであるが、現代人が読んで退屈かといえば、そのようなことは全くない。むしろ、波乱万丈の娯楽小説なのである。
本作において探偵役を務めるのは望月憲兵少佐である。現場にいる筈のない人物の指紋の謎や、月光を利用したアリバイトリックなどを論理的に解明していく展開は、本格推理ものとしても充分に楽しめる。望月少佐はさらに、ある一族の歴史を辿ることにより、スパイの驚くべき正体を暴くのであるが、そこには伝奇ロマン的な香りも漂う。
しかし、実質的な主人公は、五十嵐博士の息子である新一青年と言えるかもしれない。スパイを出し抜いたり、逆に拉致されたりと、全編を通じて大活躍を見せる。ヒロインである南京子とのラブロマンスは、時局を反映して殺伐とした作品世界に人間ドラマの色彩を与えており、読みどころのひとつとなっている。
本作は「新連載科学小説」と銘打って連載が開始された。当時流行の軍事科学小説、今でいうSF小説の系譜に属する。物語の中心となるのは新型航空動力の機密の争奪戦であるが、連載中(1944年)に小栗虫太郎おぐりむしたろうが発表した少年向け軍事科学小説『成層圏魔城』にも、ニューヨーク爆撃を可能にする新航空動力を発明した日本人科学者が登場する。こうした想像力の背景には、開戦当初において世界に比類のない長距離・高速飛行と運動性を誇った「零戦」を生み出した日本の航空技術への信頼があると考えられる。当時の日本人にとって、アメリカ本土空襲は見果てぬ夢であったのだろう(実際、アメリカ本土爆撃を目的とした超遠距離飛行機「富嶽」の開発計画が存在した)。
『偉大なる夢』には、韮崎という自称「錬金術師」が登場するが、その研究所の描写はSF的奇想に溢れている。小型火炎放射器、磁石で魚雷を引き寄せる装置、都市を蹂躙じゅうりんする巨大戦車の模型、そして機械仕掛けで指が動く巨人の手首……。特に最後の、人型巨大兵器という発想は、戦後の漫画『鉄人28号』(横山光輝)に先行する。乱歩自身、戦後の少年向け探偵小説にロボットや宇宙人といったSF的なギミックを数多く投入しているが、『偉大なる夢』は乱歩の成人向け「科学小説」としても貴重である。
本作で強調されているのは、日本人の科学力への賛美だけではない。作中、ルーズベルトと陸軍長官の会話を通じて、日本人の持つ神秘性と自己犠牲の精神にアメリカ人が恐怖を感じる、といった描写がなされる。また、ヒロインである南京子は科学者の妹でありながら、霊感少女のように描かれているのも特徴的である。精神主義・神秘主義的な方向に傾斜していく戦争末期の日本人のメンタリティを示しているようで、興味深い。
終盤近くでは、アメリカ空軍による東京への大規模な無差別爆撃の様子が描かれる。この場面が雑誌に掲載されたのは1944年9月のことであり、1945年3月10日の「東京大空襲」(あるいは最初の東京空襲があった1944年11月24日)より前である。応戦する日本の青年パイロットは、都民を守るために敵機への体当たりを敢行して散華する。まるで、同年10月20日から開始される「特攻作戦」を予告するかのような描写となっている。
乱歩は『偉大なる夢』の連載開始にあたり、「私は一つ夢を語らうとする。無論、昔日の悪夢を語るのではない。(中略)大いなる正夢を語らうとするのである」と述べた。「昔日の悪夢」とは、過去のエロ・グロ通俗探偵小説を意味する。そして「大いなる正夢」とは、小説の最後で望月少佐が「歓喜の絶叫」と共に語る日本大勝利の「偉大なる夢」のことであろう。その後の歴史を知る者からすると、この小説が「架空戦記物」(歴史のIFを描いた小説)として読めてしまうのは皮肉である。
一方、『偉大なる夢』の中で「正夢」になったのは、「特攻作戦」や東京大空襲といった、「悪夢」のような近未来である。乱歩の卓越した推理力は、あるいは敗戦に到るまでの悲劇の数々を既に予測していたのかもしれない。国策に沿った「防諜長編小説」「科学小説」の体裁を取りながら描き出した「正夢」、それがこの小説の正体なのではないだろうか。
江戸川乱歩文庫版『偉大なる夢』には他に、『断崖』『兇器』という二つの短編小説が収録されている。前者は会話劇スタイルの異色作であり、乱歩の戦後文壇への復帰作に位置付けられる。後者は、成人向け作品としては『地獄の道化師』以来、約15年ぶりの「明智小五郎もの」であり、50代を迎えた明智の推理が冴える。
以上のように、文庫版『偉大なる夢』は、戦時中から終戦直後まで、寡作期の乱歩の作品に出会える貴重な1冊となっているのである。
文・乾英治郎(立教大学講師)
関連書籍
『偉大なる夢【リニューアル版 】』(江戸川乱歩文庫・春陽堂書店)
工学博士・五十嵐東三の大いなる夢は、東京・ニューヨーク間を五時間で飛ぶ超高速機の試作であった。 軍の援助で長野県上田市の温泉の裏山にある某貴族の別荘に、五十嵐博士を首班とする秘密設計班が立てこもった。 老博士の長男新一と助手の南博士の妹京子のふたりが山の見晴らし台で見た怪しい影…、煙突の中からはい出した怪人物はスパイか!? 老博士は何者かに刺され重体…、新一は行方不明…、底知れぬナゾは深まってゆく…! 他に昭和二十五年発表の「断崖」、二十九年発表の「凶器」の名作二編も同時収録! 推理界の大御所・江戸川乱歩が、終戦間近い昭和十八年より十九年にかけて連載執筆した異色作。 戦時下の世相をしのばせるファン必見の傑作編!
この記事を書いた人
乾英治郎(いぬい・えいじろう)
神奈川県生まれ。現在、立教大学他非常勤講師(専門は日本近現代文学)。「『新青年』研究会」会員、国際芥川龍之介学会理事。著書に『評伝永井龍男─芥川・直木賞の育ての親』(青山ライフ出版、2017・3)、共著に 松本和也編『テクスト分析入門』(ひつじ書房、2016・10)、庄司達也編『芥川龍之介ハンドブック』(鼎書房、2015・4)等がある。