タイ文学編(前半)

ゲスト:福冨渉さん
対話:倉本さおり、長瀬海
2019年に刊行されたタイの作家・ウティット・へーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』は、翻訳書の刊行と時を同じくして、岡田利規による脚本と演出によって舞台化もなされ、大きな話題となった。また、タイの現代文学を代表するプラープダー・ユンの小説も翻訳され、日本の新聞や雑誌などでも目にすることが増えている。
タイの文学とはどんなものなのか、各作家はどのような思いで創作をしているのか。作家たちと共同でタイ文学シーンを盛り上げようとしている福冨渉さんにお話を聞いた。

政治的動乱とタイの作家たち
── 2000年代以降のタイ文学で私たちにとって身近な小説といえば、2007年に翻訳されたラッタウット・ラープチャルーンサップの『観光』(古屋美登里訳、早川書房)がありますよね。邦訳版が刊行されるやいなや新聞や雑誌の書評欄で絶賛され、2010年に紀伊國屋書店で開催された「ワールド文学カップ」で見事MVPを獲得したことでも注目を集めました。
福冨 『観光』は小説として非常に面白い、優れた短編集であることは間違いないです。ただこれは、東南アジアに対するエキゾチックな視線を、別の角度からもう一度ひっくりかえしたものだとも思うんです。作者のラッタウットはタイ系アメリカ人で、アメリカの大学のクリエイティヴライティングコースで創作を学んでいます。アジア系の作家が英語圏の創作コースで学んで、自分のルーツを探るように小説を書くようになった時期の産物と言える部分もあるんじゃないでしょうか。もちろん、『観光』はタイの綺麗な側面も汚い部分も映し出していて、それが作者の抒情性と見事に結びついているのは疑いありません。でも彼の場合はむしろ21世紀の英語圏の文学として捉えた方が、作者や作品をより深く理解できるんじゃないのかなと思います。

ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』(ハヤカワepi文庫、2010年)

── 福冨さんが翻訳されている作品を手に取ると、私たちが勝手に思い描いていたタイのイメージが良い意味で打ち壊されていくような気がします。「アジア文学の誘い」のイベントに出演してくださったときに、福冨さんが「タイ文学の裏では絶えず血が流れてる」とおっしゃっていたのが印象的で。ウティット・へーマムーンの『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社、2019年)はまさにそうした気配を感じさせる小説でした。

ウティット・ヘーマムーン(写真提供=ウティット・ヘーマムーン)

ウティット・ヘーマムーン『プラータナー: 憑依のポートレート』(河出書房新社、2019年)と原著表紙

福冨 タイには、この百年くらいの政治や社会の動きに巻き込まれて、たくさんの人々が倒れてきたことを色濃く刻む文学作品がいくつもあります。タイのことを勉強している人間として、そういう作品がすごく大切だと思っています。もちろん文学の全部がぜんぶ政治的メッセージを発するためのツールじゃない。でも、近代から現代にかけて紡がれた作品のあちこちにそうした匂いが残っていて、それが興味深いんですよね。
── タイ文学が政治的なものと結びつきが強くなったのはいつ頃からなんですか?
福冨 1950年代から70年代にかけてのタイ文学は、「生きるための文学」という呼び方をされます。ある種のアジテーションっぽい、社会的不正義を告発するような作風が特徴です。社会改革の理想に燃えた青年が地方に行って、不正を暴こうとするけどヤクザに殺される、みたいな。50年代以降の軍事独裁政権下、政治的動乱の裏で、そんな物語や言葉が社会を変えるべく紡がれて、次第に人口に膾炙していったんです。そして70年代の民主化運動のなかで意味を持っていく。
── つまり「大衆に対する啓蒙」を目的とした作品群、というようなものでしょうか。
福冨 はい。ただ、そうした文学的な流れも70年代に変化します。まず1973年、学生主導の民主化運動が国王の支持も得て成功し、一応の民主化が成し遂げられます。でも76年には、急進化した学生たちが軍部と右派の一般市民に弾圧されて、虐殺されるという事件が起こる。これを受けて、タイでは共産主義的・社会主義的なもの、つまり、左派運動全般が衰退していくんです。それと並行して、アメリカとの関係が強まっていくようになる。
アメリカは東南アジアの共産化を防ぐためのハブとしてタイを重視していた。この頃に、今も続く東南アジア文学賞が作られます。これは、東南アジア条約機構(SEATO)の文学賞から発展したものだと言われてもいて、要は「生きるための文学」という共産主義的・社会主義的思想の強い文学を排除して、新しい文学の動きを作ろうという思惑があったと考えることもできる。東南アジア文学賞は「創造的な文学」という新しい規範を打ち出しますが、それ以降、タイ文学の方向性が変わっていきます。
── なるほど……。政治的な主張が脱色されて、新たな文学のモードが生まれたわけですね。
福冨 はい、とはいえ「創造的な文学」が何かを定義づけるのは難しいんです。ひとつ言えるのは、実存主義的な文学作品があの頃、たくさん書かれていたということくらいで。でも、それも21世紀に入って姿を消します。時代が変わるんですね。
 2000年代以降で大きなことと言えば、タックシン政権を取り巻く政治的騒乱です。80年代から21世紀の初頭ぐらいまでのタイは、経済発展などもあって比較的穏やかでした。しかし、2006年にタックシン首相が軍事クーデターで追放されて以降、「赤服」と呼ばれるタックシン派と「黄服」という反タックシン派・王党派のデモが激化します。両派の衝突や、当局による弾圧のなかで死傷者がたくさん出てしまいました。2011年には、タックシンの妹のインラックが首相に就任するんですが、その後もまだまだ騒乱は収まらない。2013年になると政権与党と野党及びその支持者が、ある法案を巡って大きくぶつかります。反政府デモが起こり、バンコクの主要な交差点が封鎖された。翌年、インラックは失職するんですが、混乱は収束することなく、軍事クーデターが起きます。同時に、強い影響力のあったラーマ9世も高齢化していて、以前のような力はなくなっていました。
こういった政治的騒乱を背景に、文芸作品もまた、一気に変容する。ちょうどその頃、インターネットやSNSが発達して、創作の空間も変わり、新しいカルチャーとの結びつきも生まれました。日本の小説やマンガの翻訳もいっきに増えて、その流れのなかで、いま日本でもブームになっている、タイ発のBLとかラノベも増えていきます。
── タイの現代文学を代表する小説家にプラープダー・ユンがいますね。彼が21世紀の初頭に登場したとき、タイではプラープダー現象なるものが起きたと聞きました。
福冨 プラープダーはタイのカルチャーアイコンとして、21世紀の初めのタイ国内ではとても大きな存在でした。彼は、保守系の大手英字新聞出版社の創業者の息子なんですよね。高校からアメリカに行って、ニューヨークの芸術系大学を卒業します。その後、グラフィックデザイナーとして活動し始めるんですが、そういった経緯もあって、当時のタイのアーティストとしてはかなり異色な人物でした。

プラープダー・ユン(写真提供=プラープダー・ユン)

英語もペラペラで、なぜかスキンヘッド。タイで坊主頭というと、仏僧をイメージさせるので、おしゃれでスキンヘッドをしてる人はそんなにいなかった。そういった人物が突然、タイの新聞に映画批評を書き始めた。どうやらグラフィックデザインもやるらしい。英語圏の音楽についてのコラムも書くし、日本のポップカルチャーにも詳しいようだ。CMにも出始めたぞ……ってタイの大衆を惹きつけてるうちに、小説を書いて、東南アジア文学賞をとってしまった。そういった流れで、タイ国民を沸かせて、ブームとなるんです。
── 日本の読者にとってもなじみやすい作品のひとつに、『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)という長編がありますよね。主人公の周辺に、さまざまな生きづらさを抱えた人物がいて、彼らの自己承認と居場所を巡る物語になっている。ポップで読みやすい作品で、ちょっとパク・ミンギュを思わせるようなユーモアも感じられます。でも、そうした軽さの裏側には、社会と切り離されたときに個人として何を考えるべきか、という深い問いがある。
福冨 プラープダーの物語は哲学的なものが多いんですが、彼の作品がタイ国内で多くの支持を集めているのは、その部分を見なくても読めるという理由もあると思います。言葉遣いにしても、タイ語を通常とはちょっと違う意味合いで使ってみたり、形容の仕方も独特だったり、それでいて軽快で、シュールで、読みやすい。
でも、本質的なところでは、グローバルな経験を積んだひとりの人間として、あの時代の東南アジアでいかに生きるか、どうやって個人として自己を確立するかを思索している。そういう意味では、実存的な部分は前の世代の文学から引き継ぎつつ、同時に新世代のポップなものを取り入れてもいるとも言えます。それが彼の小説家としての面白いところですね。
── 福冨さんが翻訳した『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)というエッセイも、旅の中で個人とは何かというテーマについてこんこんと思索を広げていく紀行文学ですよね。

プラープダー・ユン『パンダ』(東京外国語大学出版会、2011年)と、『新しい目の旅立ち』(ゲンロン、2020年)

福冨 共同体から切り離されて孤立した個人を前提とした作品って、タイにはそんなに多くなかったんです。プラープダーが登場した2000年代前半は、タイ社会の持つ重力みたいなものを、考えなくても良い時代でもあった。経済発展が一気に進んで、タックシンというとても強い政治家も出てきた。一見、国全体がグローバル化のなかで安定していったように感じられてもいた時期です。そこからフェーズが変わって、激動の政治の時代になっていく。『新しい目の旅立ち』のような作品は、そういう変化の時期の経験と思索を書き留めているとも言えるのかもしれません。
── 現在「ゲンロンβ」誌上で翻訳連載されているプラープダーの「ベースメント・ムーン」は、2016年のバンコクの情景から始まりますが、いま教えていただいたような背景を知ってから読むとまた景色がぐっと鮮明になります。
福冨 あの作品は完全な未来SFなんですが、主人公のプラープダー・ユンは2016年の時点にいる。2016年のバンコクというのは、まだクーデター直後の世界で、混乱も収まっていないし、そもそも軍事政権下です。そこは押さえておく必要があります。

「ベースメント・ムーン」第1回が掲載された雑誌「ゲンロン11」(2020年)と、『ベースメント・ムーン』原著

── この作品は中華SFにも近いダイナミックな小説ですよね。2016年に生きるプラープダー・ユンの携帯に何者かからメッセージが届き、誘われるようにある部屋に到着すると、2060年代の未来の姿を見させられる……。物語を通じて、「個人の意識が存在するには他者の存在が大事なんだ」というメッセージが浮かびあがってくる構成になっています。
福冨 「ベースメント・ムーン」は、彼が自分自身の社会的・政治的役割を考え始めたことと、社会状況が重なった結果として、意識のなりたち、そして他者と自己というテーマに繋がっていったのかな、と思っています。あの作品は、クーデターがなくても、遅かれ早かれ書かれることになったのかもしれないけれど、大きなバックグラウンドとして、現代の政治的混乱があることは間違いないと思います。「ベースメント・ムーン」はそういう意味で、まぎれもなくポスト・クーデターの小説ですね。
── ポスト・クーデターといえば、ウティット・ヘーマムーンの名前も挙げられると思います。彼の作品はプラープダー・ユンとは違って、土着的な匂いがぷんぷんしますよね。彼はタイ国内ではどんな存在なんですか?
福冨 ウティット・ヘーマムーンは、2009年の『ラップレー、ケンコーイ』という長編小説が東南アジア文学賞を受賞したことがきっかけで有名になりました。彼は、タイ中部の田舎町出身なんですが、その土着的な部分と個人や家族の物語、それから霊的な話を結びつけるように書かれたのが『ラップレー、ケンコーイ』でした。物語の背後には政治的な問題があるんだけど、あくまでもそれは後景に過ぎない。ローカルの暮らしや風土を生臭く描いたところに魅力がある小説です。
── 後景にあった政治性を前景化させたもたのが、2017年に発表された『プラータナー:憑依のポートレート』ということですね。カオシンというひとりの芸術家の性的な衝動と政治的闘争が、現代タイの社会的混乱を背景に描かれている。
福冨 『プラータナー:憑依のポートレート』が出た頃には、もう政治的な状況から誰も目を背けることができなくなっていました。戦後のタイ社会に名実ともに君臨していたラーマ9世が崩御し、軍の支配は続いている。そんな中で人々は、権力構造や社会の不平等、近現代の政治史からタブーとされてきた王室についてまで、多くのことについて議論を始めます。なぜ暴力のサイクルが連鎖するのか。どうしてそこで苦しむ人々は見捨てられてきたのか。そのダイナミクスを駆動してきたのはだれなのか。こういった問題を、あくまで個人の「欲望」という問題を中心に置きながら、文学的想像力でつなぎ合わせて輪郭化したのが『プラータナー』だと言えると思います。
タイって、10年ちょっと前までは、大人でも、本を年間で7、8行しか読まない社会だって言われてたんです(苦笑)。その数字は根拠のないものなんですが、それぐらい本が読まれないと言われていた。でも、クーデター後の何年かで完全に変わりましたね。いまはとにかく人文・社会科学の本が売れているみたいです。冷戦期の泰米関係とタイ政治を分析した博士論文をもとにした、400ページ近い学術書に重版かかっていて、それを高校生や大学生が列を作って買い求めてるなんて話もありました。そういう時代になって、とにかくいろいろな本が刊行されまくっているのが、現在のタイの状況です。

若者が多く集まっているタイのブックフェア会場

プロフィール
福冨渉(ふくとみ・しょう)
1986年東京生まれ。タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者、タイ語講師。株式会社ゲンロン所属。神田外語大学などで非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社)。その他短篇小説などの翻訳多数。
ウェブサイト:https://www.shofukutomi.info/


倉本さおり(くらもと・さおり)
東京生まれ。書評家、法政大学兼任講師。共同通信文芸時評「デザインする文学」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」連載中のほか、文芸誌、週刊誌、新聞各紙で書評やコラムを中心に執筆。TBS「文化系トークラジオLife」サブパーソナリティ。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)、『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)などがある。

長瀬海(ながせ・かい)
千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。文芸誌、カルチャー誌にて書評、インタビュー記事を執筆。「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。「週刊金曜日」書評委員。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」(『日本文学の翻訳と流通』所収、勉誠社)共著に『世界の中のポスト3.11』(新曜社)がある。