星泉さんインタビュー
伝統が壊れる瞬間に生まれる文学(後半)

対話:倉本さおり、長瀬海
チベット文学の翻訳を数多く手がける星泉さんのインタビュー後半は、チベット語の、チベットの文化の魅力についてお話いただきました。男性がモテるにはことわざを使いこなすことが必須!? 6歳の少女に教わった美しい響きの言葉「キャクパ」の意味とは? 
底の知れないチベット研究の魅力
── 星さんはチベット語の文法研究や辞典編纂がご専門ですから、純粋な翻訳者とはまた違いますよね。そもそも、なぜチベット語を研究されるようになったんですか?
 おっしゃる通り、私の専門分野は言語学なんですね。だから文法を研究したり、辞書を作ったりするのが本業なんです。私がそういう道を歩んでいるのは、きっと、チベット語の研究者だった母親の影響が強いんだと思います。小さい頃から語り聞かせてくれた物語は、みんなチベットのお化けの物語でしたし。ただ、直接のきっかけは、大学時代にインド旅行に行ったときに、チベット人の一家と親しくなったことでした。もともと両親の非常に親しい友人の実家だったんです。彼らの家で過ごしたお正月があまりに楽しくて。こんな世界にいつまでも関わっていたいなぁって思って、チベット語の研究をするようになったんです。
── チベット人のお家で過ごすお正月、楽しそう! どんな雰囲気だったんでしょう。
 とにかく歌ってました(笑)。もう、みんなすごくいい声で。次々に歌い出すんですよ。それが楽しくて楽しくて。ただ、私はといえば、自分に当てられたらどうしよって怯えてて(笑)。自分の番が回ってきませんようにってひたすら祈ってる自分が情けなかったですね。
それで、その一家とはすっかり親しくなったんですが、今度はその一家から、わが家に結婚式の招待状が届いたんです。親にはあんたが名代で行ってこいと指名されて。結婚式は確か、大学4年生の11月だったと思う。その頃と言えば、大学生は卒論書いてる時期なわけじゃないですか。どうしよう……って一瞬だけ悩んだんですけど、いいや、行っちゃえって(笑)。卒論の原稿を持って行きました(笑)。そうしたら、もう、楽しくて。場所はインドだったので、厳密なチベットの結婚式ってわけじゃないんですけど、それでも、昔のチベットのスタイルで三日三晩、開かれるんです。三日三晩ですよ! 想像つかないじゃないですか。
── その時点で絶対に日本みたいな形式ばったやつじゃないってわかる(笑)。もう期待しかないですよね。
 でしょ? 私もわくわくして参加しました。まず、朝がすごい早いんです。お婿さんの家の人が花嫁の実家に迎えに行くところから始まる。迎えに行くときにも語りが入るんですよ。当時はチベット語は一言もわからなかったけど、なんだか語りがすごく巧そうなおじさんが、ぬっと前に出てきて、花嫁や花婿、そしてそれぞれの家を讃える歌を、めちゃくちゃ良い声で朗々と歌い上げるんです。朝五時に(笑)。そうしていると、親族や友人がお祝いの席をどんどん訪れてきて、お食事がバーっと並べられる。みんなでテーブルを囲みながらお喋りをして、時々、歌ったり、ダンスを踊ったりして過ごしていると、あっという間に夜になってました。夜は夜で、輪になって歌いながら踊ったりするんです。そんなのが、文字通り、三日三晩続きました。楽しかったなぁ(笑)。
── やっぱり、そこも語りの文化なんですね。声に魂を乗せるっていうか。
 そうなの、そうなの。チベットにおけるイケメンとは語れる男子のことだったりもしてね。語りの技術とことわざの使い方は、チベット人なら身につけておいて損はしないんですよね。
── 確かに、チベットの小説を読んでいると、ことわざが至る所に出てきますよね。ことわざを使える人っていうのはチベット社会でどんな評価をされるんですか?
 ええ。一度、チベットの大学の先生を日本に読んで講演をお願いしたことがあるんですね。そうしたら男の子の教育は、まずはことわざを覚えさせるところからっていうお話をされて。確かに私も、なんかやたらとチベットの人はことわざ使うし、チベットの小説にはことわざが無数に出てくるから、なんとなくことわざはチベットの文化のなかで大事なものなんだろうなぁ、ぐらいには思ってたんです。でも、男子の教育ではことわざの学習が最重要である、とまで言い切れるものだと思わなかった。
 ただ、そうは言っても、文学のなかで使われることわざっていうのは、作者がちょっとカッコつけて使う、文学表現の一つなんじゃないのかなって半信半疑なままでした。でも、あるとき、そんな疑いを晴らしてくれる風景を目撃したんです。2017年にチベットに調査に行ったときのこと。一緒に調査を手伝ってくれるチベット人の友人が、ことわざ大会があるから行かないか?って誘ってくれて。ことわざ大会? そんなの行かない手はない……!!って思って、連れて行ってもらいました。
── ことわざ大会……!(ごくり)
 気になりますよね(笑)。友人には車でちょっとのところで開かれてるって言われたんですけど、まぁ、チベットの「ちょっと」は数時間なので、かなりの時間、車を走らせました。でも、草原を走っても走っても、会場に全然辿り着かない。不安に思っているうちに、草原の遥か彼方にようやくテントが見えてきた。近づいていくと、ものすっごい人だかりなんですよ。大きなテントの外で、会場に入れなかったおじいちゃんやおばあちゃんがなかを覗き込んでる。テントのなかを見てみると、もう、人がぎっしり! 会場になんとか入ると、大きなテントの前方に舞台が設えられていて、そこに左右に分かれて、ことわざ使いがあぐらをかいて座ってるんです。
── えっと、フリースタイルダンジョンみたいなのを想像すればいいのかな……(笑)?
 まぁ、そうですね(笑)。私もとりあえず対決しているってことだけは分かったんだけど、何が繰り広げられているのかいまいち掴めなくて。この人たちは何をやっているんですか?って聞いたら、お題が与えられて、30分以内に2人で設定を決めて、観衆の前でやりとりを演じるんだって友人に言われて。その場にぴったりなことわざを使って、相手を圧倒できた方の勝ち、みたいなんです。

ことわざ大会の様子。9番の男性が優勝しました(撮影:星泉。2017年8月)

 例えば、次のようなお題。ある家の家畜が、他の家の草地に入って、草を食べてしまった。そのせいで大喧嘩が起きて、人が死んだ。そんなトラブルが起きたら、どうするか。あるいは、嫁が村の誰かに略奪された。夫と嫁の両家から代表が来て、話し合いをするときに、どう折り合いをつけるか。ちょっと正確じゃないかもしれないけど、大体こんな感じの内容。その一つひとつのトラブルをことわざで解決するわけです。
 審査員が会場にずらっと並んでるんですよ。地域の名うてのことわざ師が座ってて、これはうまいことを言ったとか、今のは同じことの繰り返しだよねとか、韻の踏み具合がいまいち、とか評する。地元のテレビ局も来てるんだけど、最後にアナウンサーが今の対決、評価をお願いします!って言うと、みんな紙に何点って書いて、パッと掲げる。で、それを合計して、ただいまの勝負……誰々の勝ち!って。それで勝負決定。
── すごい! よくわからないけど、なんだかわかってしまう!(笑)
 戦い自体はシンプルですからね(笑)。どうやら、SNSで大会の告知がされて、チベットのあちこちから人が集まってきてたみたいなんです。
── 伝統芸能的に閉じられて、参加できる人が限られた世界じゃなくて、チベットの人々みんなでその芸を享受してるんですね。
 そうなんです。私は残念ながら断片的にしかわからなかったけど、周りの人たち、老若男女はめちゃくちゃ盛り上がってて。熱心に戦いをスマホに撮ったり、拍手したり、大笑いしたり。本当にすごい光景だった。こりゃあ、黙読の文学なんてやってる暇、全然ないよねって思わず唸ってしまいました。こういった語りの文化を楽しむ土壌がチベットの全土に残ってる。そのことに素直に感心しました。私たちの国では、まず考えられないことですからね。チベットって面白いでしょ(笑)。
── すごく面白い。タクブンジャの『ハバ犬を育てる話』(海老原志穂・大川謙作・星泉・三浦順子訳、東京外国語出版会)という短編集がありますよね。表題作では、人間の言葉を喋るハバ犬が人間の社会でのし上がっていく話です。ハバ犬は主人公の「私」を主人と崇めるのですが、いつの間にか「私」の職場で働くようになり、秘書に恋をする。犬と人間だから結婚なんてできるわけないって最初は嘲笑されるんだけど、ハバ犬が手紙をみんなの前で朗読し始めると、秘書が感動して……という展開になる。人間社会を戯画化した物語ですが、ここにあるのは語りの力への信仰だと思うんです。チベットの内側にある言葉の豊穣さって凄まじいなって思わされました。

タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会)。
右の写真はひいきの酒蔵に立つタクブンジャ。隣は同郷の作家(撮影:星泉)撮影は2017年8月

 やはり、チベットの現代文学は、語りの達人が読んでも楽しいものにしなくちゃいけない、という使命でもって書かれていると思います。ある意味では、チベットの小説家はハイレベルな戦いを強いられている。チベットの現代文化をつぶさに観察していると、今でも、声の文化を失わないようにしようという気合いをいろんなところで感じるんです。
── 『ハバ犬を育てる話』に収録されている「道具日記」は、ある教師が権力欲に突き動かされる物語です。そこで彼は、教師は「道具」に過ぎない、俺は「権力」が欲しいんだって言う。チベット語のルビがふられていますが、道具はラクチャ、権力はワンチャって言うんですよね。これは、音で韻を味わいながら解釈するべきフレーズで、単純に日本語の意味だけで解釈しているとこぼれ落ちてしまうものがあると思うんです。ただ、そういう言葉の豊かさは豊かすぎるあまり、まだ完全に解明できていない部分もあるんじゃないかなと。だからこそ、星さんが人生をかけてチベット語の辞書を作っていらっしゃるんですよね。辞書の編纂というのは具体的にどんな作業をしているんですか?
 例えば、『ハバ犬を育てる話』に収録されている作品の多くは牧畜民の話ですよね。私は、牧畜文化に触れずに、都会の人としか付き合ってこなかったので、そういう作品を理解するときに困ってしまうんです。例えば、草原のテントに関する描写があるとする。テントのなかにはどこに何があって、どこを通って出入りするのか、あるいは、夜這いのときはどこで何をするのか、そういうことが全然わからなかったんですね。チベットの文学の翻訳を始めて、最初にぶつかったのは、田舎のことを知らなきゃダメだってこと。それで、研究仲間を募って、自分たちなりに調べるということを始めました。フィールドワークに出かけて、草原の暮らしを体感して、一つひとつ言葉を集めていく。出会ったことがない言葉を聞いたら、メモをして、一つの体型を作り上げていくんです。そういう言葉との新しい出会いは面白いですね。
 少し昔の話をしていいですか? 大学院生になって、夏と冬の長期休みの間はずっと、先ほどお話しした、インド在住のチベット人一家のもとに通うようになったんです。調査をしながらチベット語の能力も身につけるために。その頃の私のレベルではまともに会話ができるの、子どもしかいなかったから、彼女・彼らとのお喋りに興じていました。あるとき、私が何か新しいチベット語を教えてって頼んだんです。そうしたら、6歳の女の子が私の耳元で、こう、囁いた。「キャクパ……。」 

子ども用のかまどを囲んで遊ぶ牧畜民の子どもたち(撮影:岩田啓介)撮影は2017年8月

── なんだか美しい響きの言葉ですね。
 そうでしょ。彼女も小さな声でか細く囁くから、なんだろう? って不思議に思ってて。それで、家に帰って、あの美しい響きの言葉はなんだろうって辞書で調べたら、「人の糞」って書いてあった(笑)。なんだよ、うんこじゃねえか! ちくしょう!って(笑)。
── あっはっはっは(爆笑)。子どもがうんこ好きっていうのは世界共通なんですねえ。日本で『うんこ漢字ドリル』が流行るのもわかります。でも、そういう言葉との出会いも面白いですよね。
 ええ、チベットに出かけて言葉を収集するのはすごく良い経験になってるんです。例えば、チベットには今も夜這いの文化があるんですね。昔、テントで生活している一家に頼んで泊めてもらったことがあるんですが、さすがに女性二人だからテントは危ないということで、近くの土で造ったお家のなかで寝かせてもらったんです。その地域では「おいで」という言葉と「紙」を表す単語の発音が似ている。だから、夜這いをする男性が訪ねてきたときに白い紙を渡すと、夜這いを許可するって意味になるんです。もし拒否したいなら、「アロウ」と言えばいい。そういうことを教えてもらいました。私は実際の夜這いに遭遇したことはないのですけど。
── そこにも語りの文化の名残があるんですね。そういうフィールドワークをしているうちにチベットの文学者とも付き合いが生じていったりするんですか?
 翻訳者ってすごいラッキーな立場で、作家からすると、自分と外の世界をつないでくれる重要な存在ってことになるんですよね。よく翻訳者が小説家に手厚い歓迎を受ける話を聞きますが、私も同じ。連絡をするとすぐに会ってくれて、ご飯に連れていってくれる。歓談しているうちに、あいつも呼ぼうかってなって、会ったことがない小説家を紹介してくれたりする。そうやって関係が少しずつ広がっていくわけです。田舎ではさっきのようなフィールドワークをして、都会ではそういう作家との付き合いをしています。贅沢ですよね。
(2021年2月28日 オンラインにて収録)
≪ 関連書籍 ≫

『風船 ペマ・ツェテン作品集』(春陽堂書店)
 ペマ・ツェテン(著)・大川謙作(訳)

映画原作の「風船」ほか、短編6作品を掲載。映画監督としても注目されるペマ・ツェテンの小説家としての魅力、そしてチベット文学の魅力を伝える。
本のサイズ:四六判仮フランス装
発行日:2020/12/25
ISBNコード:978-4-394-19009-7
価格:2,200円(税込)

プロフィール
星泉(ほし・いずみ)
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授。1967年千葉県生まれ。専門は、チベット語学、言語学。博士(文学)。1997年に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に赴任。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。編著書に『チベット牧畜文化辞典(チベット語―日本語)』、訳書にラシャムジャ『雪を待つ』、共訳書にトンドゥプジャ『ここにも躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『黒狐の谷』、ツェワン・イシェ・ペンバ『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』などがある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。


倉本さおり(くらもと・さおり)
東京生まれ。書評家、法政大学兼任講師。共同通信文芸時評「デザインする文学」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」連載中のほか、文芸誌、週刊誌、新聞各紙で書評やコラムを中心に執筆。TBS「文化系トークラジオLife」サブパーソナリティ。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)、『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)などがある。

長瀬海(ながせ・かい)
千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。文芸誌、カルチャー誌にて書評、インタビュー記事を執筆。「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。「週刊金曜日」書評委員。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」(『日本文学の翻訳と流通』所収、勉誠社)共著に『世界の中のポスト3.11』(新曜社)がある。