中東文学編(前半)

ゲスト:柳谷あゆみさん
対話:倉本さおり、長瀬海

2020年に刊行されたアフマド・サアダーウィー『バグダードのフランケンシュタイン』は、中東を舞台としたSF小説として大いに話題となった。アーサー・C・クラーク賞の最終候補となり、またアラブ小説国際賞を受賞するなど、世界各国でも高く評価されたこの小説はどのような物語なのか、そしてアラブの文学とはどのようなものなのか。翻訳者の柳谷あゆみさんに、自らの経験もあわせてお話いただきました。

中東の現代小説を読む、訳すことの困難と愉悦
—— 2020年に翻訳刊行されたアフマド・サアダーウィーの『バグダードのフランケンシュタイン』(集英社)は、爆破テロが頻発していた2005年のバグダードを舞台にした小説です。テロで吹き飛んでしまった人びとの肉片を寄せ集めることによって生まれた怪物をめぐって、現実と虚構が混淆していく。おそらく日本の多くの読者にとって、イラクの小説を読んだのはこれが初めての経験だったと思うんです。しかもそれがとびきりぶっ飛んでいて面白い小説だった。
柳谷 イラクの小説がアラビア語から日本語に翻訳されたのはこれが2冊目と言われていますから。1冊目は『悪魔のダンス』(平田伊都子訳、徳間書店)という作品で、作者はサダム・フセイン。そういう状況でもあるので、サアダーウィーさんも日本語訳刊行を喜んでいらっしゃいました。
—— なんと……。フセインかサアダーウィーか、という状況なんですね。あの作品はまさにフセイン以後のイラクの現実のなかで嘘のようなほんとうが度々起こる、そんな不穏な雰囲気が伝わる小説でした。
柳谷 『バグダードのフランケンシュタイン』には『なんとなく、クリスタル』のイラク版のような、物品にこだわった側面があると思っているんです。2005年の人々が使うひとつひとつの事物について、メーカーやブランドまで細かく書かれていて、乗っている車がメルセデスベンツか、日本車のスズキかで全く意味が異なってくる。飲んでいるお酒とかも、そのあたりがとても具体的に書かれています。目のいい作者ですね。細部をしっかり見つめていて、さらに小説の組み立て方がすごく巧い、そういう印象を受けました。

アフマド・サアダーウィー『バグダードのフランケンシュタイン』(集英社、2020年)

—— 例えば民族や宗教をめぐるイラクの複雑な事情に関して言えば、門外漢の私たちにはどうしても容易には理解できません。ただ、そういう記号的なものは生活に根付いているので、私たちにも肌感覚としてわかります。
柳谷 そうですね。細かいことですが、若きジャーナリストのマフムードが持ち歩いてるICレコーダーはパナソニック製なんですけど、肉片を集めている古物商のハーディーが売り物にしていた中古ラジオはナショナル製です。訳しながら、あぁナショナルとパナソニックで違いが見える!と感激しました。他方で、私はシリアには3年いたんですけど、イラクは行ったことがなく、土地の感覚が全くと言っていいほどないので、これは明らかに不利でした。正直なところ、この小説の翻訳者として自分が一番適任だったかと問われれば、そうは言い切れないと思います。会話文も地域差が大きいですから、同じアラビア語でもわからない箇所が多くて、作者にメールで何度も聞きました。
—— いち読者としては、日本にいる私たちにもひらかれた訳文というか、ポップですごく読みやすく感じました。とりわけ面白いなと思ったのは、古物商のハーディーが通い詰めるカフェの店主、アズィーズの言葉遣いが関西弁である点です。なぜ彼の言葉をああいった形に仕立てたのでしょうか?
柳谷 アラビア語は、特に話し言葉は、話されている地域でけっこう言葉遣いが異なります。エジプトで話されてる言葉とシリア・パレスチナ・レバノン・ヨルダンあたりのもの、それからイラクとではかなり違っていて、シリアで暮らした身からすると、エジプトの人たちの話し声は大きくて、早口に聞こえます。あと私個人の印象ですけど、エジプトの人たちはわりとグイグイくる感じがありました。日本に置き換えると「大阪の人」のイメージに近い、と思えるところがあります(笑)。ただ、この感覚は私だけでもなくて、中東を研究対象にしている人たちの間ではそれなりに共有されているんじゃないかと思います。

中東地図(中東の範囲については諸説あり)

—— 大阪の商店街を歩いてるとおっちゃんおばちゃんに声をかけられる、あの感じに似てるんですね(笑)。エネルギッシュっていうか。
柳谷 そうですね。原文でもアズィーズの喋り言葉はエジプト訛りで書かれているんです。イラク人のサアダーウィーさんの考えるエジプト訛りですね。イメージのなかのエジプト人に寄せて書いたのだと思います。私は大阪の人間ではないので、あの関西弁は見様見真似で訳したものです。一通り訳してみた後に、アラブ文学研究者で関西弁ネイティヴの大阪大学の福田義昭さんに一度見ていただきました。「柳谷さん、それは吉本やね」と変なところを直していただいたり(笑)、福田さんのアドバイスに基づいて、ならすようにして作り上げました。アズィーズは唯一、飲んだくれのハーディーに寄り添う人物なんですよね。情に厚い人物として描かれていて、その辺も自分のイメージにある大阪の人に合っていたと思います。
—— 一口に「アラビア語の翻訳」と言っても、広い地域が対象になるので、他の言語に比べて困難はさらに多そうですね。
柳谷 日常生活に関わるものほど難しいです。場所だったり食べ物だったりは、今はGoogleで画像検索すればある程度わかりますが、日常に即したものはそこで暮らさないとわからないことが多い。たとえば口語表現にはいつも悩まされます。地の文は教科書で習う言葉(正則アラビア語)で書かれるので、なんとかなるんですけど。
—— そういうときは作者とコミュニケーションを密に取りながら訳していくんですか?
柳谷 はい。ただ、先方もこちらの不勉強のせいでそんなに何度も聞かれたくはないでしょうから、英訳なども参照したうえで、どうしてもわからないところをメールで尋ねます。『バグダードのフランケンシュタイン』では、まずサアダーウィーさんに「私はまだイラクに行ったことがないので、Google mapも使って頑張ります」と正直にお伝えしました。そうしたら、英語から訳すのですか?と聞かれたので、いいえ、アラビア語からですとお答えして、それならイラクの話し言葉はきっと難しいから、何かあったら連絡してくださいと言ってくださったんです。
—— めちゃくちゃいい人……!
柳谷 いい人でしたねえ。この作品はアラブ小説国際賞を受賞して、20カ国語以上に訳されているので、たぶん英訳から重訳した例もあるのだと思います。アラビア語から翻訳する挑戦者の私を気遣ってくれたのかもしれません。サアダーウィーさんはメールの返事がとにかく早くて、あぁ、仕事ができる人だなぁと思いました。
—— アラブ小説国際賞っていうのはアラブ地域で書かれた小説全部が対象になっているんですか?
柳谷 その年に、ある程度の刊行実績を持つ版元から刊行された、アラビア語で書かれた小説が対象です。だから受賞者の国籍もバラバラです。受賞すると英訳のための資金が出るので、そこから世界デビューにつながる。いわば登竜門的な役割も持つ文学賞です。最近ではオマーンの女性作家がアラブ小説国際賞を受賞して、その仏訳も文学賞を受賞し、英訳の方はブッカー賞を受賞して話題になりました。アラビア語の小説が世界で読まれるために、とても重要な文学賞となっています。
—— 柳谷さんが中東の小説で最初に翻訳されたのはザカリーヤー・ターミルの短編集『酸っぱいブドウ』です。なぜ、この作品を最初に翻訳しようと思ったんですか?

(左)ザカリーヤー・ターミル『酸っぱいブドウ』(白水社、2018年)
(右)ザカリーヤー・ターミル©Adham Tamer

柳谷 そもそも私は歴史学が専門で、小説作品はほとんど読んだことがなかったんです。シリアのフランス・アラブ研究所に留学していたのですが、そこの入試でザカリーヤー・ターミルに関わる問題が出て、この人は知らんなあと解けなかった記憶があります(笑)。それでも何とか合格したんですが、入ってみたら文学に強い教授が多い学校でした。せっかくなので文学の授業もとって、そこでターミルの作品を読んだんです。そうしたらめちゃくちゃ面白い。それで、留学を終えてだいぶ経った頃に、東京都立大学の学内誌から寄稿依頼を頂いたときに、そうだターミルを翻訳しようと思いました。それがきっかけです。
でも、それまできちんとした形で現代小説の翻訳をしたことがなかったので、何から始めればいいのかがわかりませんでした。学内誌の編集人の赤塚若樹先生からまず翻訳権を取ってくださいと言われて、初めてそういうことが必要なんだと知って、で、必死に連絡先を探して、恐る恐るメールを書くんですけど、何を書けばいいかもわからない。ターミルは文豪だし、うっかりしたらまずいなあ……とか思いながら、私はあなたが書く不思議な世界がとても好きなので、翻訳をしたいんですと書きました。経歴には、シリアでは詩人の地位が高いと聞いてたので、私は詩人です、と書きまして。一応、短歌を詠んでいますので。それから長くイブン・ハルドゥーンの自伝の翻訳に関わってきたので、それも書きました。どれがよかったのか、幸い先方からOKの返事が来ました。嬉しかったです。それが初めての小説の翻訳でした。
—— それは抄訳という形ですか?
柳谷 はい、抄訳です。その後、上智大学アジア文化研究所のOccasional Papersというシリーズに応募する機会があって、ターミルの『酸っぱいブドウ』を1冊丸ごと翻訳する研究計画を立てたところ、採択されてペーパーの形で出せました。その際に、査読の方からこれはペーパーとしてだけではなく商業出版でも良いのではというコメントをいただいて、そんな方法もあったのか! と気づいたんです。さっきも少し言いましたが、小説をあまり読まないこともあって、そのへんもだいぶ疎かったです。でもターミルさんはシリアを代表する文豪でもあるし、それは商業出版の方が絶対いいよなと思って、ネットで書き方を調べて企画書を書きました。それから企画をどこに持ち込もうかと考えたんですが、文芸関係の出版について、今思うと冷汗が出るほど知識がありませんで……白水社さんはアラビア語の教材がすごくいいんですよ。だからアラビア語の本にもきっと理解があるはずだと思って、ツテを辿って聞いてみましたら、採択されるかはわからないけれど、翻訳の企画も受け付けていると知りました。それで企画書とペーパーを送り、大変幸運なことに、採択をいただいた次第です。海外文学の刊行にあれだけ無知な状態で企画を出したのはとても失礼なことだったと思います。それでも寛大に受け止めていただいて、採択をいただいて、ありがたくて、もう嬉しくて嬉しくて、ターミルさんに急いで電話しました。やっぱりターミル先生は天才だなあ! と言ったら、なぁにお前さんの努力のおかげだよって。そんなこんなで文芸翻訳に携わることになりました。
—— 本当に何もかも手探りのところから翻訳出版までたどり着いたんですね。

プロフィール
柳谷あゆみ(やなぎや・あゆみ)
1972年東京生まれ。(公財)東洋文庫研究員・上智大学アジア文化研究所共同研究員。中世イスラーム史研究者・アラブ文学翻訳者・歌人。慶應義塾大学などで非常勤講師。歌集『ダマスカスへ行く──前・後・途中』で第五回日本短歌協会賞。訳書にザカリーヤー・ターミル『酸っぱいブドウ/はりねずみ』、サマル・ヤズベク『無の国の門──引き裂かれた祖国シリアへの旅』(白水社)、アフマド・サアダーウィー『バグダードのフランケンシュタイン』(集英社)など。


倉本さおり(くらもと・さおり)
東京生まれ。書評家、法政大学兼任講師。共同通信文芸時評「デザインする文学」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」連載中のほか、文芸誌、週刊誌、新聞各紙で書評やコラムを中心に執筆。TBS「文化系トークラジオLife」サブパーソナリティ。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)、『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)などがある。

長瀬海(ながせ・かい)
千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。文芸誌、カルチャー誌にて書評、インタビュー記事を執筆。「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。「週刊金曜日」書評委員。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」(『日本文学の翻訳と流通』所収、勉誠社)共著に『世界の中のポスト3.11』(新曜社)がある。