せきしろ

#28
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。

28回目は番外編として、本連載をまとめた書籍「放哉の本を読まずに孤独」(8月31日発売)の「はじめに」を公開いたします。

これはボックスのタイトルです。
私の人生を変えてくれたものは何か?
私を救ってくれたものは何か?
私が真似したくなったものは何か?
しかし、真似ができなかったものは何か?
それらは全て尾崎放哉の俳句である。
1980年代、国語の授業で出会わなかったら、
1990年代、書店で句集を見つけなかったら、
2000年代、自分でもやり始めてみなかったら、
私はいつまでも孤独のままだったはずだ。
そんな尾崎放哉の俳句に改めて触れ、
感じたこと、
考えたこと、
思い出したこと、
気づいたこと、
想像したこと、
それらをエッセイとして綴ってみた。
ある俳句からエッセイがひとつ生まれる。
知らない誰かがそのエッセイを読む。
そんなことを考えただけで、
私はまた孤独ではなくなるのだ。
その人の孤独もなくなれば本望だ。

はじめに

せきをしても一人
私が自由律俳句に出会ったきっかけは国語の授業だった。1980年代の半ば、高校生の時だ。たしか国語便覧で見たと記憶している。
初めて触れた自由律俳句はとにかく衝撃的であった。当時流行っていたpunkという音楽ジャンルを知った時のような感覚に似ていた。私の祖母が定型の俳句をやっていたから幼い頃から俳句に触れる機会があり、私は祖母の俳句が大好きであったが、自由律俳句は「律」が自由であって、つまりは自分のリズムで自分の好きなことが言えるわけで、そこに魅力を感じた。ただ当時理系だった私はその後国語から離れることになり、学校で国語と交わる機会はなくなった。
そんな私が何の因果か物書きになった。とはいえ文才も仕事も人脈もなく、ただただアウトプットされない言葉たちと憂鬱が溜まっていった。お金もなく暇があれば寝ていた。天井をひとり見て、飽きると横を向いて畳をじっと見た。目の前に広がった畳の、編みこまれたイ草を凝視するだけの時間が過ぎた。
ある日ふと自由律俳句のことを思い出し、そこに自分の救済を求めた。部屋中の小銭を集め、書店へと赴き、句集を手にした。すぐに公園のベンチに座ってページを捲ると初めて触れた時の衝撃を思い出し、自分は自分の思ったことをやろうと決めた。溜まっていった言葉たちはマイナスであり孤独であるから興味のない人には興味のないものであったが、ありのままの姿でアウトプットされていった。
畳の目に生活がある
畳の目は不揃いだが醜くない
もう畳の香りがしない畳だ
そんな句を作ったことを憶えている。
それからも幾度となく孤独になった。しかし自由律俳句があるのでもう平気だった。


放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

「放哉の本を読まずに孤独」8月31日(水)発売!
『放哉の本を読まずに孤独』(春陽堂書店)せきしろ・著
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)
プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』