松井 久子
第18回 支え合っている
 仕事が一番きつかったのは40代、テレビ局の下請け制作会社を経営しながら、2時間ドラマのプロデューサーをしていた頃だ。
 あの頃は、辛さをひとりで抱えながら、誰にも相談できず、耐えていることが多すぎた。
 たぶん自分の身の丈に合わない立場で、自身の力量を超える仕事をしていたのだろう。
 離婚後にシングル・マザーとなって、息子と二人で生きていくためなら、もっと無理のない仕事の仕方があったろうに。
 中小企業の経営を維持するために、金融機関をまわって借入金の交渉をするなど日常茶飯のことだった。つねに資金繰りに苦しみながら、あるときは雇っていたプロデューサーの不始末で、数百万もの違約金を用意しなくてはならず、消費者金融に駆け込んで、高利の金を借りてしのいだこともある。
 そういうときに、誰にも相談できず、毎度、ひとりで乗り切っていた。何故か最近、その頃のことをよく思い出す。
 あの頃は小規模な下請け業者が次々できて、まさに過当競争の時代だったから、自分の会社の企画をテレビ局に採用してもらうために、街場のプロデューサーたちはさまざまな手段を使っていたようだ。
“ようだ”というのは、私は経営者でありながら、制作会社の仕事の実態、発注者であるテレビ局と下請け業者の関係をほとんど知らなかったからだ。
 2時間ドラマのメインの視聴者層が自分と同世代の主婦たちということもあって、女性の私が書く企画(ストーリー)は重宝されたが、スタッフ・キャストを集めて撮影から作品の完成までを仕切る、プロデューサーのノウハウがあるわけではなかった。
 そこで私は、経営者でありながら、ドラマづくりの上では企画を書くだけの人で、局に対する営業と制作現場を仕切ってもらう人として、フリーのプロデューサーを雇っていたのである。
 そしてテレビ局の局員と下請け業者が関係を結ぶ場は、まさに「男同士の世界」でもあった。
 いまはどのように動いているかはわからないが、80年代半ばから90年代半ばまでは、テレビドラマをつくる場でも、発注者と受注者の上下関係は、いかにも日本的な、土建業界などと似たようなものだったのではないか。

 もう何十年も忘れていたことを思い出したのは、昨今の報道でよく「キックバック」という言葉を耳にしたからだ。
 私が制作会社をはじめた80年代の半ば、うちで雇ったベテラン・プロデューサー氏は、企画を通してもらうと、担当の局員に、受注額の一部をお礼として還流していたようなのだ。彼はそのことを、経営者の私には直接報告しなかったが、経理の者とは「キックバック」の処理の仕方を相談しているようだった。
 またあの頃は、バブル絶頂のときだったからか、下請け業者のプロデューサーが局のさまざまな立場の人を銀座で接待するなどのことが、頻繁に行われていたような気もする。
 そう、まさに「暗黙の了解」や「見て見ぬフリ」が、素人の女社長がベテラン・プロデューサーを使うときの重要な心得だった。
 つまり、うちの場合は経営者が女性であるから、局の人たちが「キックバック」や「クラブ接待」などを要求するわけにはいかなかったし、経営者の私自身は、プロデューサーが局との縦関係でどんな仕事の仕方をしているかを、知らぬふりで通していた。
 そんな風にして私の40代は、業界の裏でおこなわれていることを薄々察知しながら、見て見ぬふりを決め込んで、ひとり「誰にも言えないこと」を抱えながら、胸の苦しくなるような日々を送っていたのである。
 最初はただ局に採用される企画のためだけにドラマのストーリーを書き続け、やがて少しずつ現場の仕切り方を学んでいき、結局10年ほどの間に四十数本の2時間ドラマを制作したのだった。
 それにしても「キックバック」などという活字が、新聞の一面に躍る日がくるなど、夢にも思わなかった。
 自分が身を置いている世界は、いかがわしい、ヤクザまがいの世界だなぁと思ったりした頃を、ある懐かしさをもって振り返る。
 私自身は何ひとつ後ろ暗いことをしてきた記憶はないが、そういう世界に身を置いていた自分が、学問以外のことにはとんと関心も知識もない元大学教授と、晩年の日々をともに暮らしているのだから、人生、ほんとうに何が起きるかわからない。
 そして改めて思うのは、いまでは毎日、自分の身辺に起きていることのすべてを逸平に包み隠さず話している、何でも相談しているということだ。

 最近、私がとても大切にしている古い友人が、重い病にかかっていることを知った。
 それを聞いたときは動転して、何か私にできることはないか、ああもしてあげたい、こうしてあげることはできないかと、頭に浮かんだことを、夫に向かって夢中で話していた。頭に浮かんだ先から口にする、妻の取り止めのない訴えを、逸平は私と同じくらい胸を痛めている様子で聞いていた。私が泣きそうになって訴えるのを、彼も泣きそうになって聞いてくれたのだ。その人に会ったこともないのに。
 そんなときに、聞いてくれる人ができたことの有難さを思う。
 ただ耳を傾けてくれるだけではない、一緒になって悲しんだり、胸を痛めてくれる人が傍にいてくれる。
 逸平と会うまでは、生きてきた70年以上、何でも話せる人なんてひとりとしていなかった。あの40代の頃、仕事の修羅場の真っ只中いたときや、金銭的な苦境に立たされたとき、私はいつもひとりだった。
 もうあの頃や、その後の映画をつくっていた頃のように波瀾万丈のことは何も起きないけれど、傍に誰かがいてくれる安心感は格別のものだ。
 もう、二人ともに歳を取り過ぎているからだろうか。
 互いのことを話し合ってすり合わせる必要がない。ただ支え合っている。
「あなたはほんとに世間知らずなんだから」
 ついつい出てしまう言葉で、昔は人にムッとされることがよくあった。
 でも逸平はそんなことでは傷つかない。
 私が過去にどんな世界で、どんな経験をしてきたかも、話せば何でも聞いてくれるだろうが、そういうことを話したいとも思わない。
 ただ支え合っている。


第19回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。