松井 久子
第20回 それぞれの最期
 この世に人として生まれたら、100%誰にも避けることのできない死のときに向かって、私たちは日々を送っている。やがて来る「死」ほど平等なものはない。
 昔、おつきあいのあった森崎あずま監督の映画に『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』というアウトローたちの、生命力に溢れた映画があったけれど、まさに命あるうちに、どのように生きるかを、私たちは問われているのだと思う。

 単なる偶然の一致だったのか、それとも自分で選んだのか、私の母は、晩年彼女が愛してやまなかった孫(私の息子)の誕生日に、泉下せんかの人となった。
 95歳を迎える1週間ほど前の、2015年1月。もう10年近く前の、よく晴れた冬の朝のことだった。
 父が他界してから、三女である私の妹家族と暮らしていた母は、「お父さん、早くお迎えに来てくれないかしら」と、口癖のように言っていたものだ。
 世話になっているのが自分の実の子であっても、これ以上長生きしては娘に迷惑をかけるだけだから「早く死にたい」と、本気で思っていたのである。
 そんな母が、妹の旅行に合わせて、はじめて預けられたショートステイの介護施設で、夜中に転んで骨折した。
 その夜、救急車で運び込まれた病院で誤嚥性ごえんせい肺炎になって、入院からわずか50日足らずで、あっけなくこの世を去ってしまった。
 彼女の入院中の何よりの楽しみは、最愛の孫が会いに来てくれて、何時間でも二人きりで、お喋りをして過ごすことだった。
 高校に入るときから海外に留学し、その後も日本にいることが少なかった我が息子は、私が離婚をした5歳のときから、留学をした15歳まで、10年のあいだ、祖母を母親代わりに育ってきたので、人一倍のお祖母ばあちゃん子だった。
 たまに日本に帰ってきたときなど、私の手料理を食べながら、
「お母さんの料理は美味しいけど、僕にとってのおふくろの味は、申し訳ないけどバアバなんだよね」
 と言っていて、二人の絆の固さは、しばしば嫉妬をおぼえるほどだった。

 その母が、入院先で誤嚥性肺炎になったとき、私たち家族は彼女にどんな最期のときを用意してあげるべきかを、大事なテーマとして考え、話し合った。
 母は以前から「できることなら病院でなく、家で死にたい」と「延命治療はしないでほしい」とのふたつの、揺るがぬ希望を持っていたので、それを叶えてやりたく、主治医に伝えると、早速、母の退院後の在宅介護にむけて、さまざまな準備が進められた。
 ケアマネージャーさんに、在宅医療の先生や、訪問看護センターのスタッフの方たちを紹介してもらい、妹を中心とした在宅介護チームのプランが、地域のプロたちと相談しながら、着々と整えられていったのである。
 そして私たち家族は、毎日欠かすことのできない、たんの吸引の練習をして、いよいよその準備が整った頃に、主治医から、
「ご自宅で看取りをということなら、そろそろ退院されたほうがよろしいかと思います」と告げられた。
 退院当日、母は家に帰れることが嬉しくて、何度も「ありがとう」を繰り返し、私と息子とで付き添って、住み慣れた妹たちの家に戻ったのである。
 退院の夜、狭い妹の家に、二人で泊まるつもりでいると、
「お母さんは家に戻って寝たほうがいいよ。何かあったら電話するから」
 という息子の助言で、私はタクシーで15分ほどの距離にある自分の家に戻ると、ベッドで手足を伸ばして、深く眠ることができた。
 そして翌朝早く、息子からの電話で「そろそろ来てください」と言われ、急いで駆けつけたが、私は母の死に目には会えなかった。
 それでも一晩じゅう、大好きな孫に手を握られて、自宅の畳の上で、「ありがとう」を繰り返しながら死ねたのだから、母の最期はこれ以上ないものだったと思う。

 2年ほど前、夫さんを送って、ひとり自宅での自立生活を頑張っていた小学校時代の恩師の翠先生が、買い物帰りの道で転んで、骨折をしたのを機に、有料老人ホームに入居された。
 もう、これからは転んだり、火の不始末で火事になったりするような、ひとり暮らしの心配はないものの、さぞかしお寂しいだろうと、彼女のホーム入居後は、何ヶ月かに一度、親友の史子と一緒に翠先生の施設に遊びに行くのが、私たちの大切な役割であり、楽しみになった。
 そして去年の秋、翠先生がまたも散歩中に転んで、骨折して入院されたとの知らせが、史子から入った。
 入院後はお見舞いも禁止されたまま、お正月を病院で迎えられた先生が、もう退院して、元の施設に帰られたという。早速、史子と二人で会いに行くと、私の母のときと違って、すっかり回復された翠先生が、歩行器を押して玄関に現れ、私たちを笑顔で迎えてくれたのである。
 部屋の壁には、先生が昔から得意だった、お習字の書き初めや、上達著しい水彩画の近作が貼ってある。
 もうじき96歳になる先生は、骨折しても寝たきりにならなかったので「施設のスタッフさんに褒めてもらったよ」と、嬉しそうな笑顔を見せた。
 そして最近は、お習字と水彩画ばかりか、施設のお仲間さんたちと始めた、俳句にも挑戦しているのだと言って、大学ノートを開くと、びっしり、美しい文字で綴られた俳句が並んでいた。
「この前つくったのを聞いてくれる? “お迎えや いつでもいいが いまはいや”と“天国へ 行ってみたいな 日帰りで”と、ふたつつくったのよ。ねぇ、どっちがいいと思う?」
「なるほど。堅苦しい季語なんて、堂々と無視しているのがいいわ」
「明るいねぇ。いかにも先生らしい!」
 と言いながら、3人でお腹を抱えて笑い合った。
「でもね、やっぱりすぐにお父さんに会いたくなるのよ。会いたくて、仏壇を開けると、写真のお父さんがこっちを見ているでしょ。それもすぐに嫌になって、『そんなにこっちばかり見ないでよ』と言って、閉めてしまうの」

 翠先生には息子さんが二人いらっしゃるが、そのどちらかの家族と暮らしたいと思ったことは、一度としてないという。
 お子さんたちが子どもの頃も、ずっと教師の職業を持つ母親だったので、歳を重ねても、夫さんが他界された後も、我が子に対する依存心など、皆無の人なのだ。
 連れ合いが亡くなったからといって、子どもの世話になどならず、ご自分の貯金と年金で、介護施設に入るほうが、よほど毅然としていて、かっこいい。
「ここにいれば、毎日の3度の食事の心配もなく、入れ替わり立ち替わり、様子を見に来てくれるスタッフの人たちは皆優しくて、何の文句もないの。息子たちもよく顔を見に来てくれるしね」
 ときどき「親を施設に預けるなんて、薄情な子どもだ」といった陰口を耳にすることがあるが、翠先生のご家族はきっと、親も子も、距離感の取り方を心得ていらっしゃるのだろう。どちらもが理性的な判断をしている、と感じられて気持ちがいい。
 さて、夫の子どもとの縁を断って、二人で生きることを決めた私たちには、どんな未来が、どんな最期が待っているのだろう。
 逸平のことは、私が「在宅介護で看取る」と決めている。
 そろそろ自分自身の最期についても考えておかねばならないのだろうが、歳が13も離れているせいか、まだ現実味がない。
 たったひとりの息子は、遠くヨーロッパにいる。
 逸平と会う前は、マンションの自分の部屋で、孤独死をしている我が姿を想像して、十分覚悟はできていた。再びそこに戻るだけではないか。
 それに、影山逸平に出会えたおかげで、あの頃よりもずっと幸せだ、と思いながら死ぬことができる。それだけは確かだ。そしてそれだけで十分だ。


第21回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。