松井 久子
第22回 もうひと組のつがい
 親友の野口苑子のパートナーが、泉下せんかの人となって、早くも丸1年が過ぎた。
 盛大なお別れ会が行われた芝・増上寺の桜が満開だったあの日、喪服を着た苑子の痩せ細った姿を、まるで映画のワンシーンを見るように、現実感なく眺めていた。
 もちろん強い女性だから、1年間、ずっと泣き暮らしていたわけじゃない、とわかっていても、夫が隣にいるのが当たり前の人だったから、ひとり取り残されたマンションでの暮らしは、どんなに寂しいものだろう、と思ってしまう。
 苑子とはじめて会ったのは、15年ほど前で、先に知り合った夫の崇仁さんから紹介されたのだ。
 崇仁さんは、ある会合で偶然隣の席に座ったことと、年齢がほぼ同じだったせいかすぐに仲良しになり、その直後に招いていただいた食事の席で、私の著書を差し上げたところ、その本を読んだという妻の苑子さんが、私に会いたいと言ってくれたのだそうだ。
「妻は、いただいた本を読んだだけで、知らない方と会いたいなどと絶対に言わない人なので、僕も驚きましたよ」
 そして、はじめて3人で会ったとき、苑子の美しさと、竹を割ったようなさっぱりした人柄に、一瞬にして「この人と友達になりたい」と思ったのである。
 そのとき以来、年に数度の割で、男社会でひとり頑張っている私を、励ましてくれる食事会を開いてくれて、3人で楽しく語り合ううち、野口夫妻は私にとって、この世で一番の理解者であり、親友と思い、頼りにしてきたのだった。

 若い頃の苑子は、有名劇団に所属する照明スタッフで、当時日本一と言われた舞台照明家の下で、将来を嘱望されるお弟子さんだったそうだ。
 そんな彼女が、30歳になる頃に、高校時代のクラスメートだった崇仁氏と再会して、当時すでに高級官僚になっていた彼との結婚を、あっという間に決めて、演劇の世界から、忽然こつぜんと姿を消してしまったという。
 いかにも潔い、苑子らしいエピソードである。
 そして結婚後も、何か表現の仕事を続けたかったのだろう、夫の邪魔にならないように、生け花を習い始め、息子をひとりもうけた後も、彼女が生ける花は流派一門のなかでも、群を抜く才能を発揮し続けてきたし、それはいまでも変わらない。
 私は、苑子と知り合ったばかりの頃、毎年2回、デパートで開かれていた生け花展を見に行って、彼女の並外れた才能を、ひと目見ただけで確信し、いつものごとく、その場で閃いたのだった。
 近く撮影の始まる映画『レオニー』は、日本の明治大正の暮らしのなかの美を、世界中の人に見てもらいたい、という動機があって企画した作品だ。映画の半分を占める日本のシーンを通して、「暮らしの美」を生け花で表現してみたい…。
「だからぜひ、あなたに花を生けていただきたいの」
 そんな私のわがままを、苑子は二つ返事で聞いてくれ、結婚してはじめて、大切な夫をひと月以上も放り出して、映画スタッフとして、ボランティアで参加してくれたのだった。
 もちろん夫の崇仁も、そんな妻を快くハレの舞台に、送り出してくれた。
 あの撮影の日々、監督の私は、現場での苑子の存在に、どれだけ助けられたことか。
 任された生け花監修の仕事を、黙々とこなしながら、陰になり、日向になって支えてくれた苑子は、まだ知り合ったばかりだというのに、孤独がつきものである監督の仕事も、私の性格も、すでにすっかり熟知してくれているかのようだった。あのときのことは、どんなに感謝してもしきれない。

 そして映画が完成すると、苑子は当たり前のように、「社会的な要職」にある、夫のサポーターとしての役割に戻っていった。
 野口夫妻は、互いを尊敬し合いながら、つねに対等で、自然体で、私に「仲が良くていいわね」といった、ひがんだ気持ちを起こさせたことがない。
 孤独に働く私を、ひたすら明るく支える、親友夫婦の役割に徹してくれたので、私もずっと、そんな二人に甘えてきた。
「つがいを生きる」とはこういうことよ、との手本を示してくれているような、仲のいい夫婦だった。
 誰からも尊敬され慕われる、人格者だった野口崇仁が、こんなにも早く、私たちの前から姿を消してしまうなど、思ってもみなかった。
 私が影山逸平との出会いを報告したときの、苑子の喜びようも尋常でなかった。
 そのときはもう、大切な崇仁さんが、重い病とたたかう只中にあったのに。
 美味しいご飯をご馳走になるたびに、
「いつか恩返しをするからね。もう少し待っていてね」
 と繰り返した言葉も、ついに叶わないうちに、いなくなってしまった。お別れの言葉も言えないままに。
「崇仁がね、多華子ちゃんの結婚をほんとに喜んでいたよ。『よかったね』って、伝えてくれって、言ってたよ」
「ありがとう。野口夫妻が、いっぱいお手本を見せてくれたからね。幸せになるわ」
 夫婦というものは、一緒にいるあいだ、仲が良ければ良いほど、片方が、あの世に旅立ってしまったあとの喪失感は、深く、耐え難いもののようだ。
 苑子ばかりではない。そういう、伴侶を天国におくった妻の悲しみを、このところ何度も見てきた私である。
 私もそれほど遠くない時期に、同じような悲しみに暮れる日が来るのだろうか。
 いまはまだ、そんな気配は微塵もないが、覚悟しておく必要があるかもしれない。
 苑子と私は、入れ違いになってしまったなぁと、互いのしき運命を、改めて考える。
 伴侶のいる二人に、いつもお邪魔虫のようにくっついていた私が、いまは入れ替わりに伴侶を得て、苑子のほうが、ひとりの人生を歩みはじめているなんて…。
 4人でおつきあいができたら、どんなに楽しかっただろうと思うのに、運命は、そういう極上の幸せを、用意してはくれなかった。
 天は、相変わらず、ちょっとだけ意地悪だ。
 
 年末年始は互いに何かと忙しく、苑子と4ヶ月ぶりに会うことになった。
 連日の生け花のお稽古に、生徒さんたちがいてくれることが、救いになっていると聞いて、少しだけ安心する。
 彼女とは、会うと必ずうなぎを食べることになっている。
 鰻って、昔からこんなに高かっただろうか…と首を傾げてしまうほど、どんどん贅沢な食べ物になっていて、苑子と会うたび、毎回ご馳走になってきた、デパートの特別食堂の鰻。
「私がご馳走してるんじゃないよ。彼の言いつけだから、ごちゃごちゃ言わないで」
 と、苑子らしい江戸弁でまくし立てられ、その言葉にずっと甘えてきたのだった。
 ところが昨日は、わざわざLINEをして、
「お願いだから、もう崇仁さんはいないのだから、割り勘よ。約束してね」
「あはは。わかった!」
 そんなやりとりをしたところなのに、またしくじってしまった。
 家を出るとき、玄関に送りに来た逸平から、
「携帯は? 持った?」
「はい。持ったよ。大丈夫。行ってきます!」
 と、得意げに笑って、彼と別れたばかりなのに、駅に着いた途端、財布を忘れたことに気がついた。
 家に取りに戻ったら、15分は遅刻してしまう。仕方ない、今回もまた苑子に甘えよう。
 これが私だ。
 最近のこんな自分には、ほんとにうんざりさせられる。
 そして、苑子に会うなりびたあと、いつもの鰻をいただきながらお喋りをするうち、彼女が改まって言った。
「もうじき一周忌が来るでしょ。それが終わったら、私、もう一度、自分がほんとうにやりたかったことは何だろうと考えて、それに挑戦してみようと思っているの」
「それはいいね。苑子は才能があるんだから、何でもやってみればいい」
 後期高齢者になっても、まだ前向きに、自分らしく生きようとしている苑子に、「そういう人だから、あなたが好きなのよ」と、改めて言いたくなっていた。
「たいしたことじゃなくていいのよ。でも、何かあるかもしれないと思っているの。ねえ、多華子はこれから、何がしたい?」
 と、尋ねられて、
「なんにもない。ほんとになんにも。したいことがもう何もないことが、嬉しくて仕方ないの」
 思わず、そう答えていた。
「そうか、そうだよね。ずっと頑張ってきたものね」
「この安心感は、手放せないよ。ずっとここに浸っていたい」
 と、言っていたのである。
 が、帰りの電車のなかで、しばし、先ほど苑子に言った言葉を思い出していた。
 私にも、したいことはまだまだたくさんあるのに、何故あんな言い方をしたのだろう?
 確かに、もう何もしたくないというのも、半分は正直な気持ちだ。
 でも、咄嗟とっさに、あんな答え方をしていたのが、自分でも意外だった。
 やっぱり、これまでの人生、相当無理をしてきたんだな。
 つがいは楽だ…としみじみ思う。


(第23回につづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。