松井 久子
第21回 健康を保つ秘訣
 耳が遠くなって、二人とも補聴器のお世話になっているとか、毎朝、逸平はパンツを、私はストッキングやタイツを片足を上げてはくときに、もう一方の足で全身を支えられなくて、何度もヨロヨロするとか、老いを迎えた暮らしで不自由になったことは、日毎に増えている。
 それでも、これといった病名のつく身体の不調は何もなく、2月11日の建国記念日、逸平は今年も健康で91歳の誕生日を迎えた。
「伊豆に東大の寮があってね、大学の頃は毎年夏休みになると、西伊豆の土肥とひまで泳ぎに行ったもんだよ」
「そうだったのね? 私も大学に入った最初の夏休みに、クラスで仲良くなった女子4人組で、土肥に海水浴に行ったことがある。これといった特徴のない、さびれた海岸だったけれど、どうして土肥まで行くことになったのか、思い出せないわ」
 そんな学生時代の、旅にまつわる、偶然の一致に話が弾むうち、今年のバースデー旅行は土肥にしようということになった。
 出会った3年前、最初のお祝い旅行は、山梨の大月温泉に、大雪のなか分厚い防寒コートを着込んで行ったことを思い出す。ところが今年は、2月というのに、気温20度に迫る暖かさで、途中立ち寄った修善寺の梅林の楚々そそとした美しさは、ため息が出るほどだった。

 最近の逸平は、誰に会っても「どうしてそんなにお元気なんですか?」と聞かれる。
 そう聞かれるのが何より嬉しい本人に代わって、思い当たる3つの健康の秘訣を答えるのは、いつも私の役目だ。
 91歳を迎えても、シャンと背筋が伸びて、70代にしか見えない、その若さの秘訣は、第一に新陳代謝がいいことにあると思っている。
 これは、彼が40代の頃から続けているサウナのおかげだそうである。
 最初にサウナを覚えたのは、亡妻の治子さんと過ごしたドイツ・ミュンヘンでのことだというが、日本に帰ってからも、運動よりサウナに入るのが目的で、いまでも週に3日ほどはジムに通っている。
 そのジムには、極端に運動の苦手な私も、無理やりメンバーにさせられて、結婚直後から一緒に通い始めたのだが、フロアで最初に目にした逸平の、年齢に似合わぬ身軽さには、驚嘆するほかなかった。
 ジムのフロアに、つねに30人ほどいる老若男女のなかで、どう考えても最高齢に違いない彼が、マシンを使いながら、懸垂や腹筋運動、そして仕上げのウォーキングと、時間はほんの30分ほどだが、それらの運動を易々やすやすとこなしていく。
 その習慣をもう半世紀近く続けているというのだから、まさに継続は力なり、である。
 その間、ビギナーの私は、最初に行ったときのトレーナーの指導に従って、腹筋と背筋、腕と足の筋肉を鍛えるマシンでの運動を、約15分で簡単に済ませると、マットの上で、流れるビデオを見ながらのストレッチ運動に、残りの15分を費やす。そんな風にたった30分動くだけでも、固まった筋肉がほぐれて、身体が軽くなった気がするのだ。
 そして二人は、2階での運動が終わると、3階に上がって1時間ほど、私は入浴、彼はサウナに入って、汗を流す。
 逸平にとっては、この週3日ほどコンスタントに流す汗が、一番の健康の秘訣のようで、真冬でも夜中には汗をかいている。
 私などは、疲れが溜まると、肩が凝ったり、背中が痛くなったりしてくるが、逸平にはそれがない。
 たまに「揉んであげましょうか?」と肩に手をのせてみると、筋肉が信じられないほどふわふわで、本人も「肩こりがどういうものか、わからない」と言う。
 習慣にしているジムとサウナ通いのせいで、代謝が良く、血行が滞ることがないのだろう。ほんとうに羨ましい限りである。

 第二の健康の秘訣は、睡眠の質が良いこと。
 これもなかなか真似のできない、影山逸平の特技のひとつだと思う。
 彼の就寝時間は、毎夜11頃から翌朝の6時頃まで、ほぼ7時間と決まっていて、この習慣も一年365日、ほとんど乱れることがない。
 とにかく、ベッドに入ったら、すぐに深い眠りに落ちることができる人なのだ。
 高齢になってからは、夜中に何度かトイレに起きているようだが、ベッドに戻ったら、またすぐに深い眠りに戻ることができる。
 そして朝の6時頃まで、ぐっすり眠れる彼の辞書には、「不眠」という言葉がないようである。
 更に、何より感心するのが、朝起きたら、その日ベッドに入る夜の11時になるまで、一日中、彼が横になっている姿を見たことがない点だ。
 たまに年相応に、机の前に座ってコックリ、コックリしていることもあるが、それほど頻繁ではないのも、就寝時間に熟睡できているからだろう。

 そして第三の秘訣は、何でもよく食べることだ。
 昭和8年生まれの彼は、基礎体力をつけるべき子どもの頃は、戦争中の食糧難の時代だったからか、美味しいものを食べるという習慣が、身についていない。実は妻としては、一緒に暮らしていて、この点が最大の不満である。
 私と結婚する前は、毎日のジムの帰りに、スーパーの惣菜を買って帰り、炊いておいた白米と、その買ってきた惣菜をおかずに、夕食を済ませていたというから、いわば基本的に、「栄養のバランスが取れれば、食べるものは何でもいい」という人なのである。
 たとえば、「栄養をつけるならレバニラだ」と信じているような人で、私はそういう彼を、少し軽蔑している。
「あなたは美食家だからね」との言葉は、私への最大の皮肉のようで、あまり凝った料理をしても、有り難がってもらえない。
 畢竟ひっきょう、私は、自分が食べたいものを、あれこれ考えて、その日のメニューを決めることになるわけだ。
 ほうれん草の胡麻和えは、惣菜を買ってきてしまえば簡単だが、毎回、すり鉢で胡麻をるなどの手順を省かない。それこそが料理の楽しさだと思っている。
「あなたの料理はご馳走すぎるよ。申し訳ないけど、一品減らしてもらえないかな」と最初のうちはよく言われた。が、私はそんな言葉にもいっこうにめげず、食べたいもの、作りたいものを好き勝手に調理して、食卓に載せる。
 そして逸平は、毎回「ご馳走すぎる」とボヤきながら、どんな料理も残さず、キレイに平らげてくれる。
 最初は「美味しい」と口に出して、言ってくれないことが不満だったが、私の料理を、何ひとつ文句も言わずに食べているうち、みるみる顔色が良くなり、お腹まわりの贅肉も取れてきたので、やはりこの変化は、バランスの取れた食事のせいだと自画自賛している。
 そして出会った頃は、
「あと10年、100歳までは元気でいてね」
 と言っていたのが、いまでは、
「逸平さん、あなたは確実に120まで生きるわね」
 に変わっている。

 こうして改めて考えるうち、私たち夫婦は、特に気が合うとか、相性がいいというよりも、二人ともに、自分のこれまでの生活スタイルを、まったく変えずに暮らしていることに気がついた。
 ひとりでいたときは、それぞれの生き方を、頑固に、自己満足的につらぬいてきた二人が、再婚したからといって、相手に合わせようなどという考えは、ハナから持たなかった。
 これこそが、老いて一緒になった夫婦の、健康と円満の秘訣と言えるかもしれない。
 たとえば長年連れ添った夫婦が、晩年を迎えて、互いの存在に「飽き飽きしている」と言ったり、「早くひとりになりたい」などと言っているのを聞くと、ああ、きっとこの夫婦は、どちらもが無理や我慢をしてきたんだろうな…と思ってしまう。
 そういう友人たちの言葉を聞いていると、私も、逸平と若い頃に結婚して、50年の歴史を重ねた夫婦なら、同じように考えるかもしれない、とも思うのだ。
 私たちは、二人ともに、それぞれが仕事優先で、自我をむき出しに生きてきたので、この歳になって相手に合わせることなど、到底できない。どちらもそれを、わかっていた。
 我慢はしない。自らの頑固さも自己満足も、否定せずに守り通す。
 そして、互いの胸のうちに、ベースとしてあるのは、相手の個性を重んじながら抱く、感謝の念だ。
「感謝」というとばかに他人行儀な気がするが、ちょっとしたことで衝突したり、派手な喧嘩をしても、「隣りにいてくれてありがとう」という、人生を孤独に生きてきた者だけが抱く、素直な気持ちである。

「あなたがいないと、生きていけなくなった」
 とは、最近の逸平が折あるごとに口にする言葉で、私もそれを聞くたび、
「よかったね、私たち。ほんとに会えてよかった」
 と、喧嘩しながらも、同じ言葉を繰り返している。
 とにもかくにも、91歳を迎えた我が夫が、こんなにも健康でいられるのは、本人が長年にわたって続けてきた「自己管理」の賜物だろう。
 人生100年時代を、幸せに生きるには、40代、50代の若いうちからの自己管理が、必須であると思う。


第22回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。