「私の理想の男性はお祖父ちゃんなの。でも私の世代に、こんな人はなかなかいないわ」
最初に逸平の家族との食事会に招かれたとき、孫娘の茉莉さんが、自分に恋人のできない理由をそんな風に語っていた。
聞いて、嬉しそうに目を細めていた逸平の顔が忘れられない。
隣の知美さん夫婦も、そんな娘の言葉を微笑ましげに聞いていた。
成城のフレンチ・レストラン。2年ほど前の夜のことだ。
茉莉さんは典型的なお祖父ちゃん子なんだ…と思い、いい家族だなぁと感じたことも、逸平との再婚を考える私の背中を押した一因だった。
誰かと知り合ったとき、家族との関係がどのようであるかは、その人の印象の良し悪しを左右する。その点、影山家の家族の第一印象は上々だった。
生まれたときから両親と祖父母と同居していた茉莉さんが、祖母が他界した後、ひとり暮らしをするため家を出て、逸平が茉莉さんと会うのは年に数度となっても、お祖父ちゃんは一番の理解者であり、二人は特別な絆で結ばれていたようだ。
だから知美さん夫婦がこの家を出ていったときも、祖父に会いにきた茉莉さんの、
「私はどちらの味方もしないわよ。両方と、これまで通りいい関係でいたいから」との言葉には、逸平もどんなにホッとしたことだろう。娘とは疎遠になってしまっても、子どもの頃から可愛がった孫娘とつながっていれば「それでよし」と、前向きに考えているのが彼の様子でわかった。
その茉莉さんから、暮れに「おつきあいしている人ができたので、紹介したい」と連絡があって、私たちと茉莉さんは初対面の青年を交えて、和気藹々の食事をした。
その席で、茉莉さんの子どもの頃の思い出話に花が咲いて、逸平が、「あの頃のあなたのアルバムが、まだ家にあるよ」と言うと、二人が子どもの頃の写真を見たいと言って、年明け早々に、アルバムを取りに来ることが決まった。
またその席で、私のつくるパスタ料理の話になり、恋人の青年が「ぜひ食べてみたい」と言って、今度家に来たときにその料理をご馳走する約束もした。
やはり両親が家を出てからは、茉莉さんも家に来るのは憚られたのだろう。外で会うばかりになった彼女と、久しぶりに家で食事ができることになって、逸平もその日が来るのを楽しみにしていたのである。
ところが、お正月が明け、約束の日の間際になって、
── その日食事はできなくなったので、アルバムだけ取りに行きます。
と、私のラインに茉莉さんから連絡があった。
逸平が大層がっかりして、
「正月に皆で食卓を囲むのを楽しみにしていたのに、残念だ。アルバムを取りに来るだけなら、わざわざ来なくてもいい。送るから住所を教えなさい」
と、いつになく感情的な文言のラインを送ると、早速茉莉さんから住所とともに、
── よろしくお願いします。
と、他人行儀な返事が届いたのだった。
暮れに会ったときは、私のパスタ料理を食べるのを、あんなに楽しみにしてくれていたのに、やはり知美さんから何か言われたのだろうか。
大好きなお祖父ちゃんだけど、もう家族としてはつきあわない、と決めたのだろうか。
逸平と娘家族とを辛うじてつないでいた細い糸が、切れようとしていた。
翌日から、彼は早速、家族のアルバムの整理に取りかかった。
戸袋から引き出して、リビングの床に積み上げられた何十冊ものアルバムは、引越しのときに持っていかなかったのか、知美さんの子ども時代のものも大量に残されていた。
逸平がそのアルバムを、一冊ずつ開いては、何度も手を止め、時間をかけて見ている。
そしてときどき思い直したように立ち上がっては、重いアルバムを持ち上げ、段ボール箱に詰めている。
その姿がいかにも寂しげに感じられて、
「ずいぶんたくさんあるのねぇ」
と、声をかけた。
「ほとんどが僕の撮ったものだ」
逸平はいまでも、散歩に行くときは、必ず小型カメラをポケットに忍ばせて出かけるほど、写真撮影が好きだ。
大事なひとり娘の子ども時代や、目の中に入れても痛くないほど可愛がった孫娘の成長ぶりを、写真に撮り続けた証がそこにあった。平和な過去の家族団欒の証が。
もし私がこの家に来なかったら、ここが彼女たちの実家で、いつまでも家族が集う場であったのだと思うと、申し訳ない気持ちにもなった。
そんな私の思いを察してか、逸平が改めて言った。
「あなたは気にすることなどないよ。僕は普通のお祖父ちゃんではないから。書物に学び、ものを書くという、自分の世界を持っている。孫と会えなくなって感傷的になるような人間じゃない。ずっと、自分の世界を生きてきたんだ」と。
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
そして彼は、こうも言った。
「知美にしても、茉莉にしても、子育ての間は、父親として祖父として、全力で頑張ったからね。ほんとうに思い残すことがないんだよ。これで却ってさっぱりするな」
そして翌日、茉莉さんのアルバムは3つの段ボール箱に詰められて、本人の元に送られていった。
しかし、それが無事着いたという連絡は、まだない。
血が繫がっているというだけで、家族はどうして仲睦まじくなければならないのだろう。
もちろん仲がいいに越したことはない。
しかし「家族仲良く」は、長年、日本社会の人びとの心に根づいた「思い込み」や「呪縛」に過ぎないのではないか、と思うことがある。
血が繫がっているがゆえに、他人にはしない要求をし合い、互いにもたれ合い、縛り合っている。それゆえ仲違いをする。また、「世間体」を気にするあまり、見せかけだけ仲良く振舞っている家族もある。
先妻の治子さんが生きていたとき、影山家は「傍目には、なんとか格好がついていた」と逸平は言う。
「母親が死んだ後は、同居する父親が90歳に近くなっても健康で自立しているのをいいことに、見せかけだけの、いい家族を演じていただけだ。やがて来るであろう介護のときに怯えながら」
「……。そこに渡りに船のように、私が現れたというわけね」
「そうだ。だから正式な結婚を勧めた。彼女たちは、父親が再婚してあなたのマンションに移り住んでくれるのを、期待していたのかもしれないな」
その頃から逸平は、「晩年の生き直し」という言葉を好んで使うようになった。
もう、家族のためには生きない。自分のために生きて、死ぬんだ、と。
逸平と私は、個々の自立した人間同士として出会った。
その出会いは偶然だったけれど、あえて「結婚」という形をとったのは、二人の意思によるものだった。
しかし私たちの結婚は、新しい「家族」をつくるためではなかった。
「個」と「個」が互いを尊重し合いながら、それぞれの人生の総仕上げをするために、二人で生きることを選んだのである。
抑圧も忍耐もない、個々が自立した対等な関係は、どこまで可能だろうか? という、人生の最終段階にもうけた、新たな課題の実現に向けて、私たちはいまも挑戦している。
互いを慈しみ合いながら、穏やかに暮らす年老いた夫婦の日々。そこに子や孫が、どうしても必要とは思わない。
孫を可愛がるのはいかにも微笑ましく、批判する人はいないだろうが、それはなにか、失われたものを埋め合わせるための「代替行為」と考えられなくもない。
私たちは「家族愛」という仮衣をまとって、たくさんの欺瞞に、見て見ぬフリをしてきたと言えなくもない。
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。