松井 久子
第16回 大物小物
 ある朝、ダイニング・テーブルの向こうに座る逸平が、トーストを頰張りながら呟いた。
「長いこと生きてきたが、とうとう大物にはなれなかったな」
 思わず顔を上げると、小さく笑っている。
 苦笑にも、恥ずかしがっているようにも見える笑いだ。
 真意がわからず、
「? どういうこと?」
 といていた。
「ついに、テーブルのそちら側にどーんと座って、出されたものを大様おおように食べる人間にはなれなかったな、と思ってね」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことで大物か小物かなんて、大袈裟よ」
 だいたい、よわい90を過ぎてもまだそんなことが気になるのだろうか。男というものは摩訶不思議まかふしぎな生きものだ。
 私が一笑に付して話は終わったかと思ったら、彼がまた少し間を置いて、呟いた。
「いつもあなたが羨ましいと思ってね」
「なあんだ、皮肉?」
「皮肉じゃないよ、本気でそう思っている」
 そんな会話から、大物小物談義が始まった。

 逸平の1日は、毎朝の起床後、何十年にもわたって自らに課してきたルーティンを、規則正しくこなすことからはじまる。
 午前6時半、目が覚めてベッドを出ると、パジャマからプレスのきいたYシャツとスラックス(このスタイルをもう数十年も変えたことがない)の日常着に着替えて、4階に上がりルーフ・バルコニーに出ると、晴天なら朝の新鮮な外気を胸いっぱいに吸いながら、簡単な屈伸運動をする。運動を終えると、再び家の中に戻って洗面台で顔を洗い、髭を剃る。
 髭剃りを終えて2階のキッチンに降りると、昨夜のうちにまとめておいたゴミ袋を両手に家を出て、向かいのアパートの前のゴミ集積所まで運ぶ。
 更には、ゴミ捨てから戻ると毎日判で押したように、決まったメニューの朝食の支度をはじめる。
 少なくとも、大阪の大学教授の職を定年で終えてからの20年間は、朝の儀式のような朝食づくりを、ルーティンとして続けてきたようだ。
 それは先妻の治子さんが生きていたときも、その後ひとりになってからの数年間も、また、私がこの家に来てからも、何ひとつ変わらない、彼の規則正しい日常のひとこまである。
「その変えられなさを小物だなぁと思うんだよ。あなたみたいに、朝食ができた頃に悠然と降りてきて、台所から遠いほうの席に座って、当然という顔をして食べられたらと思うのに、それができない」
 たしかに。この家に来てまだ一か月過ぎただけの頃から、この家の女あるじのように違和感なく溶け込んでいた。知美さんはそんな私の厚かましさに、我慢ならなかったのだろうか…、とまたも彼女が出て行った理由を考えては、その思いを素早く追い出す。
 逸平は、私が席に着くと、今日もトーストしたパンにバターを塗って、その上にハムをのせて差し出してくれる。
 そんなこと自分でできるのに…と思うほど、あれこれ誰かの世話を焼くのが身についている。
 そして手渡されたトーストを、当然のごとく受け取って、
「ありがと」
 素っ気なく言い、ムシャムシャと食べる私を「なんて大物なんだ…!」と考えるのだそうだ。
 笑ってしまう。大物の定義があまりにも小さすぎて。

 彼は、前にも書いたように、幼い頃から母親のサポート役をしてきたせいか、誰にでも、何かしてあげることが当たり前に身についている。
「男はそんなことをするべきじゃない」などという固定観念にしばられることもなく、また、少しの押しつけがましさもなく、自然にそうしている。
 そんな自分を、「小物だ」と思ってしまうのだそうだ。
 いっぽう、40年を超える長い独り身の暮らしを経て、いきなり影山逸平の妻となった私は、もう「男を立てる」なんてことはとうに忘れている。
 若い頃は「朝食を夫に作らせるなんて、女の風上にも置けない所業だ」とあれほど思っていたのが、77歳になったいまでは、そういう殊勝な考えも跡形もなく消えて、すこぶる自分本位な人間になっている。
 もちろん、夫を軽んじているわけではない。逸平に対する尊敬の念は持ち続けている。が、男のために台所に立つのが女の仕事、女に作ってもらったものを食べるのが男の仕事、などとツユほども考えなくなったな、と気がついたとき、逸平のような男と出会ったのだ。なんて運のいいことだろう。
 それにしても、彼の世間的なイメージと実像との、なんと大きな開きのあることか。
 影山逸平は、昔から、如才ない人づきあいがまるでできない人だった。
 小学校低学年の頃は言葉もうまく喋れなくて、先生から知的障害ではないかと心配されたほどだったそうだ。それが小学校3年生のときに突如変身して、優等生になったのだという。
 長じて東大を出て教職についてからも、日頃は極端に口数が少なく無愛想なので、ずっと学生からは「怖い先生」と恐れられてきたらしい。
 だから、老齢になったいまでも「とっつきにくい」彼の世間的イメージは、「大物教授」風である。
 本人が「どうしてボクはこれほど小物なのだろう?」と、ペシミスティックに考えているなんて、誰も信じないだろう。
 ところが、その「怖そうな影山先生」が、家のなかでは威厳のようなものが微塵もない。たとえば、
「ちょっとATMに振り込みに行ってくる」
 と、出かける支度をしているのに気づいて、
「ATMなら後でジムに行くときに寄ればいいじゃないの。どうしてわざわざ?」
 と訊ねると、
「あのね、ジムに貯金通帳なんか、持っていきたくないんだよ」
「何で? ちゃんと鍵のかかるロッカーがあるのに、どうして通帳をジムに持っていけないの?」
「そりゃあ鍵はかかるけどさ…持っていきたくないんだ…あんなもの…」
 と、モジモジグズグズ、口ごもっている。
 そんな合理性に欠けた彼の、逡巡と同居する頑固さに、いつも私のほうが先にキレてしまう。
「ああ、じれったい! ほんとに面倒くさい人ねぇ」
「あなたにはわからないだろうね。あなたが羨ましいよ」
 嫌味でもなんでもない。それが影山逸平という男の偽らざる気持ちなのだ。
 妻と張り合おうともしなければ、杓子定規しゃくしじょうぎで、石橋を叩いて渡るような自分の性分を、直そうとも変えようとも思っていない。
 ちなみに彼の血液型は几帳面なA型で、私はアバウトなO型だ。

 ところで、逸平がよく「大物だ」とか、「小物だ」とか言うのを聞いて、それは男性特有の発想ではないか? と思っていた。女の私は、そういう物差しは持っていない、と。
 ところが先日、逸平の前妻の治子さんが遠い昔、娘に宛てて書いたというたくさんの手紙を読ませてもらって、女性もそういう発想をする人がいることを知ったのである。
 かれこれ40年近い昔、ドイツの大学生だった知美さんが、
「私は自立した女になどなりたくないの。平凡な主婦になりたいのよ」
 と母親への手紙で訴えているのに対して、大学教授であり文学者として若い頃から名の知られた影山治子さんは、
「何を言っているの? あなたは幼いときから大物だった。大物になる器があったのよ。それをあなたを育てた父親と母親は知っている。もっと自分に自信を持ちなさい」とか、「私たちが育てた娘よ。大物でないわけがありません」といった言葉を、娘への手紙に切々と書いて、諭していたようなのだ。
 母の思いがめんめんと綴られた手紙を読んで、まだ20歳の知美さんはどれだけの重荷を感じたことだろう…と想像すると、胸が痛くなった。
 親の期待を知れば知るほど、子はその期待に反発したくなる。
 治子さんの娘への手紙には、そんなことに斟酌しんしゃくする余地なく、教育者ならではの説得力があった。成功した母親の放つ威厳があった。
 手紙を読み進めながら、「可哀想に…」と、すっかり娘のほうに感情移入している自分に気づいて、彼女と話をしたくなったが、その知美さんはもういない。この家を出て遠くに行ってしまった。
「多華子さんが怖いの。あなたの顔を見ると過呼吸になるのよ」
 という言葉を残して。
「父親がいてくれて、どれだけ救われたか」
 と彼女が繰り返し言っていた、たったひとりの父親を残して。


第17回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。