松井 久子
第17回 いつもひとりだった
「多華子さんは準備ができていたんですよ、きっと。だから再婚できたんだわ」
 久しぶりに会った後輩の仕事仲間に、そう言われた。
「まさか! 離婚してこのかた、再婚したいと思ったことも、できると思ったこともなかったわ。一度たりとも」
 ムキになって反論していた。
 後期高齢者になって人生の仕舞い支度をするというときに、再婚の準備などをしたという自覚はまるでない。今だに気恥ずかしい思いが先に立つ。

 最初の結婚生活に終止符を打ったのは、33歳のとき。半世紀近くも遠い昔の話である。
 だから76になって影山逸平と会うまで、43年ものあいだ、ほんとうに、一度として再婚を考えるような出会いなどなかったのだ。
 もちろんその長い歳月に、恋をしたこともなかったわけではない。
 誰かを好きになって、男女のつきあいに発展したことも、幾度かはあった。
 しかしそれらの出会いは、いずれも再婚を考えるまでには至らなかった。
 理由はいろいろだ。
 一番大きな理由は、離婚が夫のDVに苦しんだ末の選択だったために、「もう結婚はこりごり」と、ずっと思っていた。
 第二の理由は、離婚したときは息子がまだ5歳だったので、成長期の子どもへの影響を考えて、恋愛や再婚といったことがらはあらかじめタブーの領域に入れて、蓋をしてきたのだ。
 そして第三に、仕事をする女にとって何より御法度なのが「恋愛スキャンダル」だった、ということもある。
 ここでいきなり話はそれるが、いま、こうして80歳近くになっても、SNSを通じて、映画監督をしていた私を、あるいは小説を書く私を、応援しくれる男性が少なからずいてくれたのである。ついこのあいだまでは。
 ところが、逸平と再婚してからというもの、とんと音沙汰のなくなってしまった殿方が、何人もいらっしゃる。
 つまり、恋愛対象であるかないかは別として、男たちは、かつて独り身だった女が誰かの妻になってしまうと、いきなりその女を応援する気がなくなってしまうものらしい。こんな老女になってもそうなのだから、まだ仕事で現役のうちは、身の回りに男性の匂いをさせてはならない。それが鉄則だった。

 そして50代を過ぎ、60代を迎えると、いつの頃からだったか、自分が女性として見られなくなっていることにハタと気づかされる日がやってきた。
 そして更には70代を迎えると、もう「女」のカテゴリーからは弾かれてしまったのだから、再婚などはあり得ないのだと思い、観念して、「枯れる美しさ」を追い求める老女になっていくのである。
 だから、ついこの間までの私は、後輩女性が言ってくれたように「準備ができていた」どころか、ずっとひとりで生きて、ひとりで死んでいくのが当たり前な日々を送っていたと言える。
 50代の中頃までは、たまに女だけの集まりのときなど、
「多華子さん、恋愛してます?」
 と聞かれて、
「まあね、美容と健康のために」
 などと冗談めかして答えていたものだ。
 そしてやがて、仕事で責任のある立場になると、内なる女心の如何にかかわらず、仕事の邪魔にならないような恋愛をする術も、いつのまにか身についていた。

 ところが、かつて「仕事ひとすじ」という感じで生きていた頃は、いつも心の奥底に、「ある思い」を抱えていたような気がする。
 その抱え続けた「ある思い」とは、ちょっと複雑なものであり、極めて凡庸なものでもある。
 私にとっての離婚は、けっして幸福になるための100%前向きな選択だったわけではなく、ある種の「敗北感」、あるいは「挫折感」のようなものとして、長い間、心の奥底に居座っていた事柄だった。
 じっさい、離婚をした70年代の終わりの頃は、まだ単身家庭もシングル・マザーも少ない時期で、小学校に上がった息子は、教室でたったひとりの「親が離婚した家の子」であった。
 私自身、小中学校の同級生も高校と大学の友達も、大半が専業主婦になった時代だったから、華やかな世界で仕事をしていても、どこか負け組的な感覚が拭えなかった。
 また、たとえば忙しい仕事の合間を縫って、実家の両親に会いにいったときなど、80代になった父と母が、喧嘩しながらも寄り添い合っている姿、互いのことをなくてはならない存在と認め合っている姿を見ては、しみじみ考えたものだった。
「あぁ、私はこの穏やかな老夫婦の日常を、どんなに望んでも、二度と得ることなはいのだなぁ」とか、「自分は、人として大切にすべき尊いものを、粗末に捨て去ってしまったのではないか…」という類いの感慨である。
 ふと、得もいわれぬ後悔にさいなまれたり、つがいで生きている両親をひどく羨ましく見ている自分に気づく、といった感慨に。
 そして50歳のとき、そんな思いから“老いの夫婦愛”をテーマにした『ユキエ』で、映画監督に挑戦した。
 実人生で叶えられないなら、せめてつくる映画で叶えたいと、意識下で夢見ていたのだろうか。
 こうして振り返ってみると、後輩女性が言っていた「多華子さんは準備ができていたんですよ」という言葉も、あながち的外れではなかったのかもしれない。
 そう、少女の頃からずっと私は、平凡な、どこにでもある当たり前の幸福を追い求めるタイプの女だった。
 そう考えると腑に落ちるのである。
 仕事面でのほどほどの成功の代わりにうしなった、人として、女としての幸福。離婚した私は、それを死ぬまで取り戻すことはないのだと思いながら生きていた。
 孤独を引き受け、自由を謳歌する、「強い仕事人間」を目指してやってきたのである。
 しかしそれは、「強い仕事人間」を演じていたに過ぎなかった。それが「準備ができていた」と言われる所以かもしれない。
 逸平に出会って、迷うことなく再婚に踏み切れたのは、もともとそういう女になりたいと望んでいた「私という人間の本質だった」と、いまになって気づくのである。

 たとえば以前、まだ逗子のマンションでひとり暮らしをしていた頃は、近くのスーパーマーケットに行って買い物を済ませ、レジを出た先で、買った食材や日用品をひとりエコバッグに詰めているときなど、隣で老夫婦が同じ作業をしていることがしばしばあった。
 私はそのたび、「自分はこうして、ずっとひとりで買い物をするのだろうな」と考えては、隣の老夫婦を羨ましく眺めていた。
 自立したおひとり様は、そんなことをウジウジと考えたりはしないだろうに、そういうときに私は、しばしばセンチメンタルになっていたのである。
 それがいまでは、二人でジムから帰る道すがら、スーパーマーケットに立ち寄って、逸平と一緒に買い物をするのが当たり前の暮らしになった。
 彼の押すカートに載せたカゴに、その日安そうな野菜や肉類をぽんぽんと入れて歩きながら、思わず感謝している自分がいる。
 43年間もひとりだったから、そういう毎日を有難いと思うのである。

「誰かと同じ屋根の下に暮らすなんて、できないでしょうね」「もう、誰にも束縛されたくないのよ」「私にとって一番大事なのは、自由なの」と、いつも口癖のように言っていて、それが本心だと思っていたが、どうもそうではなかったようだ。
 私たちは皆、与えられた日々を元気に生きるために、たくさんのことを考えないようにしているのかもしれない。
 ほんとうに欲しいもの、手にしたいものを渇望しなくて済むように、大事なものには無意識のうちに蓋をしているのかもしれない。


第18回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。