吉田 篤弘
第十話 ポケットの中のE[其の二]
 それから、上岡少年はさほど時を経ることなく、
「確認できました」
 と、いささか疲れた様子で〈エデン〉にあらわれた。
 あんなにも瞳を輝かせていた少年が疲弊の色を露わにしている様に、除夜とミサキは良からぬ結果を予感してはいたが、
「残念ながら」
 と話し始めた少年の口調に、除夜は(そうなのか)とただちに了解した。
「見つからなかったんだね──」
 先回りするように少年の顔色をうかがうと、
「いえ、住んでいたアパートは見つかったんです」
 少年は唇を嚙んでいた。
「見つかったんですが、久世さんはとっくに亡くなっていたんです」
「亡くなった?」
「まったく知らなかったのですが、うちを辞めてほどなくして亡くなっていたようです。アパートの大家さんから聞いたところによると、亡くなり方に不審な点があったようなんですが、検視の結果、いわゆる不慮の事故ではないかということでした」
「不審死──ではなく事故だったと」
「ええ」
「辞めてすぐというのは──」
 少年は手帳を取り出して確認した。
「二年と三ヶ月前のことです」
「となると──連続殺人が始まったのはいつ?」とミサキは自分に問い、しばし考えたのち、「たしか二年前」と自分で答えた。
「となると、われわれの推理は見事にはずれたことになる」
 除夜もまた唇を嚙んでいた。
「意外でした」
 と上岡少年は別の感慨に耽っている。
「不審死というのは、つまり、殺された可能性があるということですよね?」
「そう──かならずしもそういうわけではないけれど、可能性としては、やはり殺人を疑って検証されることが多いと思う」
「そうですか──ぼくが思うに、久世さんは殺されるような人じゃなく、その逆だと思っていました」
「あ、そういえば」
 ミサキは、ふと何かを思い出したかのような口ぶりになった。
「上岡君は、その久世さんという人をモデルにして探偵小説を書くと云ってましたよね?」
「ええ、そうなんです」
「それは、久世さんが探偵のモデルになるということ?」
「いえ、探偵はKという少年で──まぁ、ぼくなんですけど──久世さんは犯人の方のモデルでした」
「ということは、やはり久世さんに犯罪の匂いを感じていたということ?」
「いえ、それはあくまでもぼくの妄想なんです。だけど、いま考えてみると、そんな妄想にとらわれていたということは、久世さんに犯罪者の佇まいを感じていたのかもしれません」
「でも、あっけなく死んでしまった。犯罪者になる前にね」
「そういうことみたいです」

 除夜とミサキは上岡少年の調査をふまえ、起きたことを確認するべく、権田を訪ねた。
「ああ、覚えてます」
 権田はほとんど即答だった。
「あのときの不審死がどのように検証されたか、そこのところは忘れてしまいましたが──そういえば、所持品の中に活字が──アルファベットの活字が二組あって──」
「あれ? 二組でしたか」とミサキが首を傾げると、
「あるいは、三組だったかもしれません」
「どちらなんです?」と除夜が詰め寄ると、
「最初は三組と記録されていたんですが、どうやら記録係の勘違いだったようで、実際は二組だったと訂正されています。──しかし、そうか──アルファベットということは、もしかして──」
「ええ、D、E、S、P、A、Iと焼印された六つのアルファベットは、久世が所持していた活字が使われた可能性があります」
「なんと──」
「これはまだ確定したわけではなく、ほとんど直感に近いあやふやな仮定に過ぎません。ただ、三組あったものが二組になってしまったのは見逃せない事実です」
「その──紛失した一組を犯人が持っているということなのか」
「あるいは、そうかもしれません。もういちど云いますが、決して確定したわけではないんです。その可能性があるということで──」

 除夜とミサキはいまふただび〈エデン〉の窓辺に戻り、
「除夜さんはどう思います?」
 とミサキが単刀直入に訊ねた。
「除夜さんは、犯人が本当に狙っているのは、次のRが刻印された人ではないかと云ってましたよね?」
「ええ。ふと、そう思ったんですが、こうなってみると、何が起きているのか分からなくなってきました」
「でも、菜緒さんは事故死であったとお考えなんですよね?」
「ええ。いまのところ、そんな気がしています」
「つまり、D、E、S、P、A、Iの六名は、皆、事故で亡くなったり、自然死であったりしたということでしょうか」
「ですから、それはひとつの可能性としてです。というか、ミサキさんはどう考えているんです?  仮にもしそうだとして、犯人はなぜ、そんなカモフラージュをして、Rが刻印された人物を殺めたいのか?」
「動機は何かってことですよね」
「動機というか、衝動というか──」
「それはもう、アルファベットが示しているとおり、絶望じゃないでしょうか」
「では、何に絶望しているんだろう?」
「それはやはり、恋とか愛に関わることですよ、きっと」
「たとえば?」
「ええ──たとえばですが──ようするに、愛し合っていたはずの相手に裏切られたんです。別の誰かと睦み合っているのを見てしまったとか」
「となると、この先、Rが刻印されて発見されるのは──」
「その相手の女性か、もしくは、浮気相手の男ということになるでしょうね」
「あれ? 待ってください。ミサキさんが思い描いている犯人は男性なんですね」
「え?」
「いえ、男ではなく女性が犯人であるとは考えられませんか?」
「そうですね──率直に云って、あまり考えたくなかったので──」
「考えたくなかった?」
「わたしが追われる身になったのも、まさにそれだったので」
「え?」
「除夜さんが知りたがっていたことですよ」
「ちょっと待ってください。ということは、ミサキさんは恋人を裏切って別の男性と──」
「まさか。違いますよ。わたしを追いかけてきたのは女性で──親友なんです。工場の同僚なんですが、彼女、まったくの勘違いをしたんです。わたしが彼女の婚約相手と恋仲になっていると。でも、それは本当に誤解なんです。なのに、いくら『違う』と云っても信じてくれなくて、ついには、短刀を手にして、わたしを脅したんです。『彼と別れてほしい』って。目が血走っていて、どうにも様子がおかしいので、恐くなって逃げてきたんです」
「そういうことだったんですか」
「単純な話です。何の謎もありません。いずれ、誤解もとけるでしょう。事実ではないんですから。でも、あのときの彼女には──思い出したくありませんが──あきらかな殺意が見て取れました。彼女、異様なほど絶望していたんです。ああ、このままだと彼女は殺人犯になってしまう──それで、わたし、走って逃げたんです」
「彼女を殺人犯にしないために?」
「ええ」
「で、この犯人もまた、そうした単純な動機を抱えているかもしれないと」
「そんな気がするんです」
「では、やはり犯人には早く伝えた方がいいですね」
「え?」
「彼が殺人犯になってしまう前にです」
「彼──ですか。やはり、除夜さんは犯人が誰であるかご承知なんですね」
「単純な話だとミサキさんはいま云いました。僕も単純に考えてみたんです。アルファベットの刻印──焼印だったと云ってましたが、焼印となると、なおさら生きているあいだには難しいのではないでしょうか」
「そうですね」
「ですが、すでにもう息を引きとったあとだったらどうでしょう?」
「それはつまり、殺害したあとに活字で焼印をしたということですか?」
「いいえ、殺害したあとではなく、死亡を確認したあとです」
「死亡の確認──」
「ええ、検視官の彼がです」
「検視官──」
「丸山です。僕の記憶に間違いがなければ、D、E、S、P、A、Iの六名の検視は、すべて丸山が担当していました。そればかりではありません。先刻、権田さんに訊いてみたのですが、久世の検視を担当したのも丸山だったそうです」
「──それは、どういうことでしょう?」
「久世の検視にあたって、おそらく丸山は久世の所持品も確認したはずです。あの三組のアルファベットの活字もです。その際に、丸山は活字をひと組み秘匿したのでしょう。そこから、すべてが始まったんです」

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

(つづく)
著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。