吉田 篤弘
第九話 秘密の場所[其の二]
「ちょっと待ってください。除夜さんのおっしゃる『秘密の場所』って、まさか、ここなんですか?」
「ええ。云ったでしょう? 人目につかないどころか、どこにいても目にすることが出来るところだって」
「たしかに、〈希望の塔〉は、街のどこにいても、近くに、遠くに、見上げてきました」
「ええ。ですから、塔がここにあることは、もちろん誰もが知っているわけですが、おそらくすべての人がこの塔の中はがらんどうであると思い込んでいます。いつからか、そう云われるようになって、『中には何もない』と誰かが断定したんです。断定は誤った結論になり、本当のことが見えなくなりました」
「誰も知らないんでしょうか?」
「さて、どうでしょう。じつのところ、塔の中には螺旋らせん階段が隠されていて、それをのぼっていけば塔の最上階に達すると知っているのは、ごく限られた数名だけだと思います。僕にその秘密を教えてくれた人物と、その秘密を共有したもう一人と──もしかすると、その三人だけかもしれません」
「どうして、そんな秘密をわたしに教えてくれるんですか」
「分かりません──」
「おかしいですよ」
「いいえ、ひとつもおかしくなんかありませんよ。ミサキさんは僕という人間をまだ知らないんです。世間の皆さんは、僕をさぞや論理的な人間であると思っているでしょうが、それもまた間違った断定です。実際はその逆で、僕はいたって非論理的な直感だけを頼りにやってきたデタラメな人間なんです」
「そうは見えませんけれど──」
「いずれ分かりますよ。僕が何も分かっていないということを。でも、それでいいんです。人間は無力な生きものです。それだけは真実であると断定したくなりますが、人間の分際で神様を気どってはいけないんでしょう──さぁ、今です。誰も見ていないうちに塔の中へ忍び込みましょう」

「────」
「────」
「──息が切れて──うまく話せませんが──どうです、この景色」
「──信じられません──なんと言ったらいいんでしょう──この景色を前にしたら──つい、神様を気どってみたくなります」
「でしょう? さっきも云ったとおり、僕は──決して論理的な人間ではないんで──よく分かりませんが──街のどこからでもこの塔が見えるということは──この最上階から、街のすべてが見えていることになりませんか?」
「そうかもしれませんね──上等な望遠鏡のひとつでもあったら──きっと、この街で起きているすべての事件を──見つけ出すことが出来るでしょうね」
「僕も初めてここへ来たときにそう思いました──もし──もし、菜緒さんが十字路で転倒したあのとき──ここから僕が望遠鏡で覗いていれば、はたして何が起きたのか、一部始終を見ることが出来たでしょう」
「でも──それでもやはり──」
「ええ、すべてが見通せるわけではありません。われわれがいま見ているのは、あくまでも陽の光にさらされた景色です。光はもれなく影をつくります。その影の領域は、ここから確認できません」
「それはどういうことでしょう? もしかして、神様は影の中でしか生きられない者たちに、光が当たらないよう配慮してくださっている?」
「いえ、影の中に生きる者たちだけではないんです。われわれすべてです。われわれにだって、光が当たる以上、影が生まれます。影を持たない人間はいないってことです」
「あ、見てください。ほら、あのあたりに十字路が見えます。となると──あそこが〈パンドラ〉で、〈十一番アパート〉は──ありました。中庭が見えます」
「そうですね。外からは見えないと思っていたのに、こうして上から眺めれば、中庭の全貌が見事に暴かれてしまいます」
「────」
「────」
「分かりました。わたし、分かっちゃいました」
「何がです?」
「なぜ、わたしをここへ──この『秘密の場所』へ連れてきたのか」
「なぜ?──ですか? 云いましたよね、こう見えて、僕は論理や理屈といったものを持ち合わせていないんです。だから、もちろん思惑だってありません。思惑とか下心とか──」
「じゃあ、理屈を超えた直感が導いているんでしょう」
「導いている? どこへです? どこへ導かれているんですか」
「わたしが、どんな『あちら』から『こちら』へ来たのか、その道筋をたどって──」
「道筋と云えば、ミサキさんはあの蛇の如くうねっている目抜き通りを、南の方から逃げるように走ってきました」
「────」
「では、南には何があるのかというと──」
「ここから見えるのは煙突ばかりです」
「工場街ですね」
「暗い街でした。あんまり暗いんで、部屋のガラス窓に安い色紙を貼りつけて──薄っぺらな色紙が陽の光を通して、畳に色とりどりの影を落としました」
「工場で働いていたんですね」
「──思い出したくないんです」
「──では、忘れましょう。僕も忘れます。それに、僕はミサキさんの思い出したくない過去へ導くために、ここへお連れしたわけではありません。いいですか? 僕の秘密と引き換えにミサキさんの秘密を教えてくださいと、そんなことを云いたいわけでもありません。僕はただ直感に従ったまでで、僕の直感はそうした下世話な交換を強いるような働きかけをしないと信じています。でなければ、いくら僕がデタラメな人間であっても、自らの直感だけを頼りにしているなどと告白したりしません」
「では──」
「ええ」
「では、除夜さんのその直感は、あの連続殺人事件の犯人がどんな人物であると示しているんですか?」
「それは分かりません。おかしな言い方かもしれませんが、分からないということが直感で分かるんです」
「──ここからこうして街を見下ろしていると、この街のあちらこちらで命を落とした五人の魂が、五つのアルファベットになって浮かび上がってくるようです」
「五つのアルファベット──」
「もし──考えたくありませんが──もし、この先、六人目の犠牲者が見つかって、体のどこかにRの一文字が刻印されていたとしたら──」
「ミサキさんの推測どおり、そこに綴られるのはDESPAIR──絶望ということになるでしょう」
「絶望しているんでしょうか、犯人は」
「そうでしょうね。少なくとも希望に充ちた犯人というものに僕は出会ったことがありません。仮に──仮にです、犯人が罪を犯した先に希望を見据えていたとしてもです。それは所詮、自分勝手な夢物語でしかないでしょう。本当の希望とは、およそかけ離れたものです」

「この塔は、なぜ、〈希望の塔〉と呼ばれているんでしょうか」
「この塔を見上げる人々が、皆、絶望しているからです」
「ということは、誰もが犯人になり得るということですか」
「それこそ理屈ですね。理屈では、たしかにそういうことになってしまいます。でも、僕はそう思いません。僕の直感は、もっと特殊な人物を指しているように思います」
「除夜さんの直感は外れることはないんですか?」
「直感は考えの道行きの入口にすぎません。まだ、われわれは入口にいるんです」
「では、入口から中に入って、その先はどうなるんですか」
「曲がりくねった道がつづいているんです。まっすぐな道はありません。でも、いくつかの指標はあるんです」
「道しるべということですか?」
「ええ。ミサキさんはこう云ったでしょう? 『本当に命を奪いたい相手は一人なのに、何人もの命を連続して奪うことで、謎を解く者を欺いている』と」
「それはマダムが云い出したことです。天から槍が降ってくるさなかに、槍で誰かをあやめたら、誰も気づかないんじゃないかって」
「僕の直感は、その考えと隣り合わせています。つまり、これまでの五人の犠牲者は、云ってみれば、天から降ってきた槍によって命を落としたんです。しかし、あともう一人──六人目はそうではないかもしれない。真の目的は六人目で、ようするに本当の殺人事件はこれから起きるんです──いや、いままさにこうしているあいだにも──」
「なんだか急に恐くなってきました。この塔を見上げる街の人々の胸の内がです」
「それは悲しい断定ですね。というか──絶望を恐れることはありません。僕はそう思います」
「────」
「なぜなら、人間が持ち得る最も素晴らしいものは希望だからです。そして、絶望した者たちこそが、いちばん大きな希望を見上げることが出来るんです──僕の直感はそう云っています」

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

(つづく)
著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。