吉田 篤弘
第八話 気まぐれな絶望[其の三]
 主に「青春」などをことさら褒め讃え、そこにめぐらされた時間や境遇などを特別なものとして享受することを謳歌と云う。
 ただし、他者によって「青春」や「人生」がことさら褒め讃えられたり、不当なまでに高く評価されることを買い被りと云う。
 しかし、買い被りであると分かっていながら、それに気づかぬふりをし、他者の気づかいや好意を「知らぬ存ぜぬ」とばかりに無視している様を、どこ吹く風と云う。
 とは云え、そうした見え透いた知らん顔が効力を逸し、ついに打つ手がなくなったときに到達する、どこか達観にも通ずる境地を、見ざる云わざる聞かざる、と云う。
 除夜は自分の命を狙われているのではないかとミサキが気を揉んでいるのを知って、思いがけず有り難く思った。
 犯人が探偵を抹消したいと願うのは、至極もっともな話で、何もいまに始まったことではない。だから、警戒するに越したことはないのだが、自分の命を惜しんでいるようでは、探偵などというものはまず務まらない。
(自分にはそうした覚悟があるにはある──)
 除夜はミサキを連れずに一人で〈パンドラ〉を訪れ、
「なんだか、元気がないわね」
 といぶかるマダムを相手に赤い酒を飲んでいた。
「浮かない顔をして──」
「僕はいつでもこんな顔ですよ」
「生きた心地がしないって顔?」
「そんなふうに見えますか」
「そうね。少なくとも、人生を謳歌しているようには見えないわね」
「こっちにそんなつもりはなくても、まわりから、『探偵』だの『名探偵』だのとはやし立てられたら、それっきり人生を謳歌することなんて出来なくなりますよ」
 除夜は視線を斜め上に据えて、ため息をついた。
「こうしているあいだにも、誰かが誰かをあやめているかもしれないんです」
「そうね」
 マダムは鈍色のライターをカチリと鳴らして煙草に火をつけた。
「それはそうかもしれないけど、要はそれをあなたが知ることになるのか、知らないままになるかってことよね」
(そのとおり──)
 除夜はよどんでいた考えに一筋の光を得た。
 まったくもってそのとおりで、事件というのは、発覚さえしなければ「事件」と呼ばれることなくやり過ごされてしまうのだ。逆に云えば、およそあらゆる事件は、誰かがそれを事件として取り沙汰したから、そう呼ばれるようになったまでである。場合によっては、ある人にとっては重大事件であっても、別のある人にとっては、「どこ吹く風」とばかりに口笛を吹いて終わりということもある。
「もし──」
 とマダムがマニキュアの光る指先で煙草の灰を灰皿の上ではたいた。
「もし、背負ってしまったものが重くて苦しいなら、いっそ、身を隠してしまった方がいいんじゃない?」
「どういうことですか」
「だって、あなたがそこにそうしている限り、どうしたって事件を探り当ててしまうんじゃない?」
「そうなんでしょうか」
「どうも、そんな気がするわね。つまり、除夜さんさえいなければ、事件が発覚しないままになって、『今日も事件はなかった、平和だった』ってことになるんじゃない?」
「僕さえいなければ──」
「そう。だからね、ものは試しで、この機に身を隠してみたらどうかしら? どこか遠いところへ逃亡するの。縁もゆかりもないところにね。見ざる云わざる聞かざるの心意気よ。すべてシャットアウトするの。そうしたら、きっと事件もなくなるでしょう。誰も気づかないんだから。もしかしたら、誰かがこっそり誰かを殺めているかもしれないけどね」
 たしかに発覚しなければそれまでだ。
(妙な話だな)
 と除夜は眼前の不条理にとらわれて、どうしていいか分からなくなっていた。
 マダムの話には一理あり、自分さえ身を隠してしまえば、事件が発覚することもなく、何ごともなかったかのように世は過ぎていくかもしれない。
 自分が何より望んでいるのは、そうした安息の日々だ。
 にもかかわらず、なぜ、「どこかに事件はないか」と嗅ぎまわってしまうのだろう。見つからない方がいいではないか。たとえ、誰かが命を落としていたとしても、探偵さえ乗り出さなければ、「これは、他殺に違いない」と周囲の皆が一斉に身構えるようなことにはならないはず。
 事実、今回、六条川で見つかった遺体は、状況から察して事故であるとみなす声の方が大きかった。普通ならそれで終わりだ。であるのに、除夜が呼び出されているのは、例のアルファベットの刻印が見つかったからで、そこに意図的な連続性がうかがえるとなれば、どうしても見過ごすわけにはいかなくなる。
「あのね」
 マダムが煙草を灰皿に押しつけて揉み消した。
「わたしは、除夜さんがどんな事件と向き合っているのか知らないけれど、たとえば──たとえばよ? じつは神様が犯人だったってことはないの?」
「神様? ですか」
「そう。つまりね、人間が犯人じゃないってこと。自然現象? って云うのかしら、たまたま風にあおられて飛んできた傘の先が、誰かの喉に突き刺さって絶命したとかね、そういうことだってあるんじゃない?」
「そうですね──なるほど、神様が犯人ですか」
 たしかに、見るからに不自然な死であったとしても、その不自然さを人間がもたらしたと断言できるわけではない。自然現象がいくつかの偶然をつないで思いもよらない凶器を作り出してしまうこともあるだろう。
 たとえば、勢いよく跳ねたシャンパンの栓が、運悪く栓を開けた者の眼を射抜いて、脳にまで到達してしまったとか──。
 その瞬間を誰も見ておらず、犠牲者が息絶えて床に横たわり、発見者が「おい、誰に殺られたんだ」と口走ってしまったら、そこから先はもう殺人事件になってしまう。まさか、犯人が神様であるとは誰も思わない。ましてや、その現場に探偵が召喚されたら、なおのことだ。
 マダムはまた新しい煙草に火をつけた。
「わたしが云いたいのはね、あなた一人が背負う必要はないってことなの。そんな深刻な顔をして、まるで、この世の終わりが来たみたいじゃない。あ、ちょっと待って、わたし、また変なこと思いついちゃった」
「変なこと? って何ですか」
 除夜はマダムの顔を煙草の煙ごしに見ていた。
「たとえば、この世の終わりが来たとするでしょう?」
「──はい」
「たとえば──何でしょうね、この世の終わりって? 自分で云っておいてよく分からないけど──そう、たとえば、空から雨じゃなく槍が降ってくるとか」
「槍? ですか」
 マダムのあまりに奇想天外な発想に除夜は笑いを禁じ得なかった。
「ちょっと、除夜さん、なに笑ってるのよ。せっかく、わたしが無い知恵を絞って考えてあげてるのに」
「すみません」
 除夜は笑いを嚙み殺した。
「たしかに空から槍が降ってきたら、この世の終わりかもしれません」
「でね、あまり考えたくないんだけど、多くの人たちがその槍に射られて死んでしまうわけ。雨に打たれるみたいに槍に射られてしまうわけだから」
 マダムの突飛な空想に、除夜は次第に笑いが遠のいていくのを感じた。
「そこで、もしよ、もし、誰か悪い奴がね、この槍の雨に乗じて誰かを槍で殺めたとしたらどうなる? 誰も殺人が起きたことに気づかないんじゃないかしら」
 除夜はいよいよ笑いを失い、失うどころか、別の感情が入れ替わりに立ちあらわれるのを覚えていた。自分はいま、何かとても重要な何ごとかに触れているのではないか、と探偵の直感が声ならぬ声をあげていた。
(近づいている)
(何にだ?)
(何に近づいている?)
(真相にか? 犯人にか?)
〈エデン〉の窓から街の朝を眺め、ミサキはいささか不真面目に除夜の話に耳を傾けていた。
 最初は、「見ざる云わざる聞かざる」などとよく分からないことを云い出したので、
(もしかして、除夜さんはどうしても解けない難事件から逃げ出そうとしているのではないかしら)
 と思ったゆえだ。
 どこかに身を隠したらどう? とマダムに助言されたらしい。
(わたしだって、そう思っているんですけれど──)
 とミサキは鼻白んだ。
 マダムはおそらく、探偵などという厄介な立場から退き、自ら災いを導き出すのをやめて、世間から距離を置いたらどうですか、と云っているのだろう。
 でも、わたしが云いたいのは、もっと具体的な差し迫ったことで、いまなお続いている連続殺人事件の次なる犠牲者が、除夜さんになるかもしれないという話なのだ。
 だから、どこかに身を隠した方がいい。
 無防備に世間に身を晒していたら──、
「もし、天から槍が降ってきたら、ってマダムが云うんですよ」
 ぼんやりした頭の「ぼんやり」を払い退けるように、除夜の言葉がミサキの耳に飛び込んできた。
「はい? 何ですって?」
「槍ですよ。もちろん、それはマダムなりの比喩なんでしょうが」
「比喩? 何のことでしょうか」
「凶行ですよ。マダムが云いたいのは、その凶行は天から槍が降ってくるという自然現象に見せかけてるってことです」
 除夜は手もとのコーヒーカップを覗き込み、黒々としたコーヒーに映る自分の顔を見つめていた。
「槍の雨に紛れて、槍を凶器に用いるということです」
「どういうことです?」
「欺かれているかもしれないんです」
「ちょっと待ってください」
 ミサキは除夜の話を制して目を閉じた。
「それはつまり、本当に命を奪いたい相手は一人なのに、何人もの命を連続して奪うことで、謎を解く者を欺いているということですか?」
「ええ。そういうことかもしれません」

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)

作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。