吉田 篤弘
第八話 気まぐれな絶望[其の二]
 待って。
 でも、そうじゃない──。
 除夜さんは「分かった」と公言したわけではなく、「分からないな」と内々に発言しただけだ。
 だから、大丈夫──とミサキは自分を安心させたくて、あれこれと考えたのだが、結局のところ、
「探偵が犯人に命を狙われるのは道理である」
 という絶望的な結論に至るよりほかなかった。
 しかも、当の探偵はただの探偵にあらず、「名探偵」とまで呼ばれる立場であるのに、およそ、そのような危険に身をさらしているという自覚が足りていない。そう見える。
 それとも、そんなことはとうに承知の上で、世間から「探偵」と呼ばれるようになった時点で覚悟を決めているのだろうか。
「分からないな」
 とミサキもつぶやいた。
 もしかして、覚悟はあるのかもしれない。ただ、「一人も死なせない」と心に決めたとき、その「一人も」の中に、自分もまた含まれていると気づいているのだろうか。
 そこが分からない。
(たぶん)──とミサキはため息をつく。
 たぶん、気づいていないのだ。
 他人の命を救うことに執心するあまり、自分の命がおろそかになっている。探偵は埒外らちがいにいると思い込んでいるのだ。
 たしかに物語に登場する探偵は、その物語になくてはならない存在なので、多少の危険に晒されることはあっても、お話の都合上、命を絶たれることはまずない。ましてや、名探偵ともなればなおのこと。
 でも、ひとたび物語の外に追いやられてしまったら、そうした大義名分などあてにならない。
 それどころか、真っ先に狙われるのではないか。
 ミサキは頭の中にうごめくこうした思いを、洗いざらい除夜にぶつけてみたかった。しかし、おそらく除夜は、
「僕のことはいいんです」
 とあっさり受け流すだろう。
(こうなったら──)
 ミサキは自らを鼓舞した。
(こうなったら、わたしが犯人を見つけ出すしかない)(除夜さんの命が狙われる前に)(いえ、すでに狙われているかもしれないのだから)(わたしが除夜さんを守ろう)(だって、ご本人はどこ吹く風なのだから)(わたしが守らずして、誰が守る?)
「そうか」
 ミサキはまたひとつ、それまで一度として考えもしなかったことを思いついた。
 自分の知る限り、名探偵が活躍するお話には、かならず探偵の助手や相棒といったものがそのかたわらにいた。
 あれらの助手や相棒の存在はダテではなかったのである。
 万が一、探偵の命が狙われるようなことがあったとき、助手や相棒が身を挺して探偵を──その明晰な頭脳を──守り抜くように仕組まれていたのではないか。
 よもや除夜さんは、わたしを助手や相棒とみなしていないだろうけれど、事の成り行きを見守ってきた神様はそう考えたかもしれない。
 否──。
 神様なんて大仰なものを持ち出すまでもなく、〈パンドラ〉のマダムが云っていた。
「除夜さんは、いつだって一匹狼を気取っているのよ」と。
 徒党を組んだり、群れることを嫌い、常に一人で事件に立ち向かって、一人で推理をして、一人で捜査を重ねて、数々の謎を解いてきた。
「一匹狼なんて云うと、どことなく聞こえがいいかもしれないけれど」
 マダムは顔をしかめていた。
「ようするに、わがままってことよ。自分の考えを貫きとおしたいだけ。それって、うまくいっているうちはいいけどね、そのうち、痛いしっぺ返しを食らうんじゃないかしら。だからね──」
 マダムはミサキに柔らかい視線を向けた。その夜、ミサキはめずらしく一人で酒を飲んでいたのだ。
「だから、あなたがそばにいてくれるのはとてもいいことだと思う。除夜さんにしてみれば、自分がミサキさんを守っていると思っているんでしょうが──まぁ、そう思わせておけばいいんだけど──わたしの見るところ、彼の方がミサキさんに守られているのよ」
 マダムはくわえていた煙草を灰皿に押しつけ、
「それとも──」
 と首を傾げて火を消した。
「それとも、彼はあの持ち前の直感ですべて分かっているのかしら」
「何をです?」
 ミサキがマダムの横顔を見つめると、
「自分の危うさをね、案外、分かっているのかもしれない。直感的にね。だから、あなたをまるで助手か相棒のように連れ回しているでしょう? そんなの初めてなのよ。自分でも『どうして?』と自問しているんじゃないかしら。だけどね、いくら名だたる探偵先生であっても、その『どうして?』の謎は解けないでしょうね。推理で答えを割り出せるようなことじゃなく、本能的にあなたを必要としているのよ。わたしはそう思う」
 そうしたわけで、ミサキはひそかに除夜の行動を物陰から監視するようになった。
 マダムは、除夜がミサキを「連れ回している」などと云ったが、毎日、朝から晩まで行動を共にしているわけではない。実際のところ、二、三日なんの音沙汰もなく放っておかれることもままあった。そうしたとき、除夜がどこへ出向いて何をしているのか、もちろんミサキは知らない。
(探ってみよう)と心に決めた。
 いつものようにミサキの様子を見に部屋を訪れた除夜が、
「では」
 と退室したあと、そうっと後をつけてみたのだ。
 尾行である。
 電柱の陰や十字路の角に身をひそめ、おそらく尾行されていることに気づいていない除夜の背中を追いながら、ミサキは苦い笑いを嚙み殺した。
 おかしな心持ちだった。探偵を尾行するなんて──。
 しかし、ミサキが推察していたとおり、除夜はやはり六人もの犠牲者を出したあの事件を一人で捜査しているようだった。いくつか寄り道はしたものの、その足は六人目が発見された斑が丘公園脇の六条川へ向かっている。
 現場検証はすでに終わっていたが、除夜としては、自分の足でその場に立って独自に検分をしたいのだろう。
 川に辿り着くと、現場である橋の欄干に身を寄せ、乗り出すようにして川を見下ろしたり、欄干の細部をルーペで確かめたりしていた。
 ミサキはそうした一部始終を公園の側から──公園の林の中に身をひそませて観察していたが、除夜のあまりの無防備さに呆れ、思わず舌打ちをしてしまいそうになった。
 まったく警戒をしていない──。
 少なくとも犯人は緻密と云っていい計画を成し遂げるために何度かこの橋へ足を運んでいるはずだ。そのうえ、この橋の上で「実行」もしているのだから、ふたたびここへ姿を見せないとも限らない。
 ミサキがそうした妄想に遊んでいると、あたかも妄想の延長のように、一人の男が辺りを警戒するような物腰で橋の上に現れた。
「え?」
 ミサキは息を吞んだ。
「何? 誰? もしかして──犯人?」
 思い描いていた最悪の事態が目の前に繰り広げられるかもしれない。
 ミサキは耐え難い嫌な予感に襲われ、勇気を振り絞って林から飛び出すと、いましも除夜の背後から襲いかからんとする男に向かって、闇雲に突進して体当たりをした。
 不意打ちを食らった男はバランスを崩し、除夜もろとも橋の上に倒れ込んだが、自分に体当たりをしてきた人物の顔を認めて、
「ミサキさん」
 とその名を口にした。
 聞き覚えのある声だ。
 中折れ帽を目深に被り、コートの襟を立てていたので、男の顔はよく見えなかったが、声を聞いてみれば、その正体は古本屋の六月にほかならない。
「え? まさか六月さんが犯人?」
 ミサキが驚きの声を上げると、
「犯人じゃなく、犯人役ですよ」
 除夜は笑っているようだった。
「検証していたんです。六月さんに協力してもらってね。再現ですよ。もし、何の前触れもなく橋の上から突き落とされそうになったら、実際のところ、身をひるがえす余裕はないものなのかと」
「だって、急に不審な男が現れたので──」とミサキは興奮が収まらない。
「急に現れてくれと、あらかじめ頼んでおいたんです」
 除夜は倒れ込んだときに打った手を自らいたわっていた。
「そんなことより、ミサキさんはどうしてこんなところにいるんですか」
 六月の問いに、ミサキは、
(なによ)
 と首をひとつふたつ振って答えなかった。
(わたしなんかがいなくたって──)
 ひねくれた感情が頭をもたげていた。
(もっといい相棒がいるじゃない)
 この怒りに似た思いは一体なんだろう、とミサキは自分を持て余した。

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。