吉田 篤弘
第九話 秘密の場所[其の一]
 自らの将来に対して、自分自身が快い状態に置かれることを望んだり願ったりすることを希望と云う。
 しかしながら、自らの将来に対して、何ひとつ快い状況が望めず、何もかもが好ましくない事態に陥るであろうことを痛感する様を絶望と云う。
 しかしながら、絶望の底に落ちることで新たなる模索が始まり、その結果、これまで予測していなかった、より良く好ましい状態が大いに期待されることを希望と云う。
 しかしながら──。
「じつは、ミサキさんをお連れしたいところがあるんです」
「お連れしたい? 何をあらたまってそんなことを云うんです? わたしがこちらへ来てからというもの、いつだって除夜さんは、わたしをどこかへ連れ出してきたじゃないですか」
「いえ、とっておきの秘密の場所なんです」
「秘密の──」
「ええ。ミサキさんは、『秘密の場所』と聞いて、どんなところを思い浮かべますか」
「それはやはり──ひと目につかない──地下であるとか──迷路のような路地の奥まったところとか」
「そうですよね。もし、われわれが今いるこの街のどこかに、『秘密』と称してしかるべきところがあるとすれば、僕も同じように答えるでしょう。しかしながら、僕に云わせれば、事実はいつでも奇なりです。答えはまるっきり反対で、僕がお連れしたい『秘密の場所』は、人目につかないどころか、どこにいても目にすることが出来るところなんです」
「どこにいても──ですか?」
「ええ、このアパートの窓からだって見えますよ。ほら」
「もしかして──中庭ですか」
「なるほど。じつに面白い解答です。たしかに中庭は建物の外から見ることが出来ません。秘密の場所としてふさわしいです。それでいて、この中庭は、このアパートに暮らすあらゆる住人の窓から眺めることが出来ます」

「わたし、毎朝、この窓辺に立って、中庭を眺めているんです。こうして遮光眼鏡をかけて──」
「今日のような薄曇りの日でも、ミサキさんの目には眩しいのですか」
「そうですね──それでわたし、ひとつ気づいたんです。この遮光眼鏡は、かなり弱い光であっても優しく緩和してくれます。きっと、その必要があって、特別につくられたものなんでしょう。この部屋で暮らしていた菜緒さんのために」
「そうですね。仰太郎さんから聞いたんですが、菜緒さんは網膜の色素変性症を患っていたそうです」
「ええ──わたしのこの右目もいくつかの問題を抱えていますが、そのうちのひとつは菜緒さんの疾患と同じものではないかと思います。ですから、この遮光眼鏡をかけていると、ちょうどいいんです。光が柔らかくなって、眩しさが消えて──」
「すべてがはっきり見えてきますか?」
「いえ、どうやらそうではないみたいです。この眼鏡をかけると、青や紫の光を正しく感じられなくなるようです」
「ああ──やはり、そうなんですね」
「やはり?」
「〈エデン〉がある、あの十字路には電光式の信号灯があるでしょう? あの十字路を渡るとき、ミサキさんは赤い信号灯には直ちに反応しているようですが、青い信号灯には、ときどき気づいていないようでした」
「────」
「じつは、菜緒さんが倒れていたのも、電光式の信号灯が導入された十字路だったんです」
「そうなんですか」
「そこでいったい何があったのか──残念ながら目撃者がいないのです。死因は頭を強打したことによるもので、転倒したことは間違いないのですが、その転倒を引き起こしたのは何であったのか──僕はやはり、十字路に進入してきた車に接触したのではないかと見ています。問題は、それがいわゆる事故であったのか、それとも、計画的なき逃げであったのか」
「だって、アルファベットの刻印があったんですよね?」
「その一点のみで、計画的なものであったと断定するのはどうだろうかと思うんです。断定は危険です。断定してしまったことで、間違った道に進みかねない」

「──お訊きしたかったんですが──除夜さんは菜緒さんが亡くなったのは、事故によるものと考えているんですか」
「それは分かりません。僕はただ、考えられる限りの可能性を頭の中に並べているだけです」
「可能性──ですか。でも、信号灯については、わたしの経験から云わせていただくと、事故につながるのは、青い信号灯が確認できなかったときではなく、赤い信号が見えなかったときではないですか?」
「それは僕も考えました。ですから、直接的には信号灯は関係ないのかもしれません。僕が検討している可能性は、信号灯を無視して十字路に進入してきた車があったということです。そして、その車体が青色であったとしたら? 現にそういうことがあったのです」
「現に?」
「ええ。そのときは大通りではなく横断歩道のない目抜き通りでした。道を横断しようとしていたとき、不意にミサキさんが通りへ飛び出して、危うく車に接触しそうになったのです」
「え? わたしの話ですか」
「ええ。一瞬のことだったので覚えていないでしょうが、そのときの車がまさに青色だったんです。ミサキさんは遮光眼鏡をかけていました」
「──待ってください──もしかして──」
「どうしました?」
「除夜さんは、わたしが菜緒さんの遮光眼鏡を勝手にお借りしているのを、なんらとがめることもなく見過ごしてきました」
「ええ」
「それは、もしかして、わたしを実験台にして、そうした検証をしたかったからですか?」
「まさか。それは誤解です。僕はなにもミサキさんを──その──なんというか──実験や検証の対象として──」
「わたし、怒っているんじゃないんです。むしろ、喜んでいると云ってもいいくらいで」
「喜んでいる?」
「ずっと引っかかっていたんです。なぜ、除夜さんは、あの連続殺人事件に身を入れて調査しないんだろうって。とりわけ、菜緒さんは仰太郎さんの娘さんじゃないですか。云ってみれば、身内のようなものではありませんか?」
「────」
「違いますか?」
「いえ、そのとおりです。ミサキさんが僕の煮えきらない態度に少なからぬ苛立ちを覚えているであろうことは、さすがに承知していました」
「分かっていたんですか?」
「もう一度云いますが、僕はミサキさんを自分の推測を検証するために観察してきたのではありません」
「監視──していたんですか」
「いえ、監視はもとより、観察という云い方すら適切ではないでしょう。僕はただ、ミサキさんはなぜいまここにこうしているのだろうと考えてしまうんです。いまさっき、ミサキさんは、『わたしがこちらへ来てから』と云いました──」
「そんなこと云いましたっけ?」
「ええ。『こちら』と確かにそう云いました。その、『こちら』という言葉の向こうには、『こちら』へ来る前の──『こちら』に対して云えば、『あちら』での時間があったはずです」
「ええ──そうですね」
「もし、僕がミサキさんに対して何かしら求めているのだとしたら、それは、『あちら』でのミサキさんが何をしていたのか、そして、何がどうなって『こちら』へ逃げ込んでくることになったのかを知りたいからです」
「本当ですか? 本当に知りたいと思っていらっしゃいます?」
「ええ。でなければ、こうしてそばにいるはずがないでしょう」
「でも、これまでそんな素振りはひとつも感じられませんでした」

「上岡智司君を覚えていますか?」
「──上岡?──ええ、一人で新聞をつくっている彼ですよね?」
「彼はあのとき、僕に取材を申し込んできました。その取材は結局、実現しませんでしたが、彼に限らず、僕に訊きたいことがあるという人たちは、必ずこう訊いてくるんです。『謎を解くコツは何でしょうか?』と」
「ええ。わたしも是非それを知りたいです。コツがあるのなら──」
「ありませんよ、そんなもの。あるのなら、僕だって知りたいです。ですから、答えは『分かりません』です。ただ、ひとつだけ心がけていることはあって──」
「あるんじゃないですか」
「ええ、まぁ。あるにはあるんですが──」
「教えてください。わたしを上岡少年だと思って」
「なに、たいしたことではないんです。頭を働かせる必要もありません。というより、あえて余計なことは考えず、どちらかというと、無関心を装って、ただ待つんです」
「ただ待つ?」
「ええ」
「待つだけですか」
「はい。急いてはならないんです。事件が起きた場所へ赴き、そこで何が起きたのか、判明している事実をひととおり把握したら、あとはただ待つんです」
「待っていると、何かいいことでもあるんですか」
「そう──待っていたら、ミサキさんが『あちら』から走ってきました」
「茶化さないでください。わたしのことはどうでもいいんです」
「いや、そうではなく、ミサキさんのことを僕は知りたいと云っているんです。でも、それこそ探偵や刑事のようにあれこれと探りを入れるのではなく、そもそも、ただ待っていたら、ある日突然、ミサキさんが『あちら』から現れたように、僕はミサキさんが自ら話してくれるのを待っているんです。そういうことです」

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。