昼が終わって陽が傾き、じきに夜にならんとするやや曖昧な時間を夕刻と云う。
確信したわけではないけれど、およそこのようなことであろうと見込むことを、目星をつけると云う。
祈りにも近い思いを持って、案じていたり、信じていたりしていたにもかかわらず、ついに望みどおりにならなかったきに押し寄せる落胆を無念と云う。
そして──。
実際はたしかに視認しているのに、あたかもそんなものは、まるで目に留まらなかったかのように振る舞うことを、見て見ぬふりと云う。
自分が自分ではなくなってしまったような心許なさを覚え、寝台の上で天井を眺めながら、自分の居場所を確認するのに数分を要する。
そう、ここはかつて、菜緒さんが暮らしていた部屋。
菜緒さんの寝台。菜緒さんのクローゼット。菜緒さんのライティング・デスク──。
ひとつひとつ確認し、それでようやく自分が自分に成型されていく。
だが、居場所は確かであるとしても、時刻となると、なおさら茫洋となる。
さて、いまは何時なのか。
時計を見ても、それが午前なのか午後なのか、カーテンを開くまで判然としない。とりわけ、ドアをノックする音に起こされた時は顕著だ。
此度もまた──。
しきりにドアをノックする者があり、いささか強めの硬い音は、十中八九、除夜によるものとみなして間違いない。
「はい」
ミサキは寝台の上からドアに向かって返事をし、寝巻きの襟を手繰り寄せながらドアに近づくと、
「除夜です」
ドア越しのくぐもった声が聞こえた。
「いまは朝でしょうか」
と問うミサキに、
「いいえ、夕刻です」
除夜の口調は落ち着いている。
「もし、お休みになっていたならいいんです」
「何かあったんですか?」
「いえ、権田警部補に呼び出されたのです──例の件で」
「例のというと──もしかして、連続殺人事件ですか」
ミサキが意気込んでそう云ったのに、
「ええ、まぁ」
除夜は声が小さくなる。
「行きます、行きます。待ってください。わたしもご一緒させてください。いま着替えますから」
権田警部補のひび割れたような声が霊安室に響いた。
前回と同じく、検視官の丸山が無念そうに瞑目している。
「六人目」
と権田が補足する。
「ご遺体は男性で、推定年齢は三十歳。死因は溺死で、争った形跡は見られません」
除夜は丸山の無念そうな表情から、今回も証拠や痕跡といったものが一切見つかっていないのだと見て取った。
「同様ということは、アルファベットの刻印もですか?」
「ええ」
権田は自身のうなじを指差し、
「ここに見つかりました」
ミサキが探るような目で権田の視線を捉えると、
「そうでした、ミサキさん──」
権田が応じ、
「あなたの推測どおり、今回のアルファベットはIでした。順に並べれば、D、E、S、P、A、I。あなたのおっしゃるとおり、ここにあとひとつ、Rが加われば、DESPAIR──ディスペアとなります」
「絶望か」と除夜がつぶやく。
「発見されたのは、斑が丘公園の脇を流れる六条川です。衣服はすべて着用したままで、靴も履いていました。いまのところ、遺書の類も見つかっていません」
権田は焦燥感に駆られているのか早口になっていた。
「分からないな」
除夜が妙にきっぱりとした口調でそう云った。
ミサキはそれが気に入らない。
否。気に入らないというより、気になったと云うべきか。
自分がどれほど除夜という人物を知っているのかと問われたら口ごもるしかないのだが、それでもミサキは、この段階で除夜が「分からないな」と明言するのは、どう見ても不自然極まりないと口がへの字になる。
なぜかしら──。
もしかして、あきらめてる?
あまりに手に負えないので、見て見ぬふりをしているとか?
まさか、放棄?
逃げているの?
「一人も殺させない」と宣言したのに、こうも立て続けに殺られてしまっているのを認められなくなっている?
いや、そんなはずがない。
本当は何か摑んでいるのだけれど、確信がなくて口にしないだけだ。そんなふうに見える。
ということは、「分からないな」と云いながらも、頭の中では様々な推理が組み立てられていて、もしかして、周囲の人たちには──わたしにも──秘密で捜査しているのかもしれない。
あるいは、もうすでに犯人の目星をつけていたりする?
警察からの帰途、ミサキは除夜の背中を見ながら一メートルほどの距離を置いてうしろを歩き、あれこれと思いをめぐらせた挙句、
「ひとつ、お訊きしてもいいですか」
と、その背中に声をかけた。
「はい?」
除夜は歩を止めて振り返る。
「いま何か云いました?」
「ひとつ、お訊きしてもいいですか──と」
「そうですねぇ」と除夜は視線を外した。「もし──もしもです、訊いてはなりません、と僕が答えても、ミサキさんは従わないでしょう?」
「そうですね」
除夜は苦笑した。
「ミサキさんはじつに素直な人です。しかし、素直な人が従順であるかどうかは分からない」
「それはそうかもしれません」
ミサキは鼻息が荒くなった。
「そもそも、従順であることを人間の美徳と決めつけるのは、傲慢な考えではないでしょうか」
「なるほど」
「素直な気持ちは、ときに、その素直さを持って、目の前の疑惑を問い質すこともあるんです」
「かなわないなぁ」
除夜はふたたび苦笑した。
「素直さを持って疑惑を問い質す──ですか。ミサキさんは、いい探偵になれますよ」
「茶化さないでください」
ミサキは不満げな顔になったが、胸の内に芽生えたほのかな自尊心が、思いがけず脈動したのも確かである。
「分かりました」
除夜は観念したように頷いた。
「何でも訊いてください。何でも答えますから」
「いえ」とミサキは軽く頭を振った。「わたしがお訊きしたいのは至って単純なことで──除夜さんは、あの連続殺人事件にどんな背景が潜んでいるのか、すでに解き明かしているのではないですか?」
「どうして、そう思うのです?」
「どうしてって、あんなに自信たっぷりに『分からない』と明言するのはおかしいですよ」
「いえ、僕はただ本当に分からないので、そう云ったまでです。こう見えて、僕もミサキさんに負けないくらい素直なんですよ」
「そうでしょうか」とミサキは横を向いて取り合わない。「わたしには、除夜さんが知らぬふりをしているように見えるんです」
「何のためにそんなことをするんでしょう?」
「だって、おかしいじゃないですか。『もう一人も殺させない』と宣言したのに、この連続殺人を前にして──被害者を目の前にしているのにです、まるで動じないどころか、犯人を見つけ出すことを放棄しているようにすら見えます」
「まさか」と除夜は声を荒らげた。「僕は放棄などしません。僕なりに真剣に取り組んでいるつもりです。でも、分からないものは分からないのです。それとも、分からないのに、分かったとハッタリをかます方がいいでしょうか? それはあまりに誠実さを欠いているし、決して得策ではないでしょう」
除夜がそう云ったとき、ミサキの脳裡に、あるひとつの考えが暗雲を引き連れて立ち込め始めた。
──六人の犠牲者はいずれもこの街の住人だが、権田警部補が云うには、「いまのところ、六人に共通点や関連は見つかっていない」という。
そこに、あらかじめ決められた法則がないのであれば、もしかして、犯人は思いつくまま気まぐれに殺人を犯しているのかもしれない。
となると、あと一文字──DESPAIRの最後のRが刻印される七人目の犠牲者は、云ってみれば、誰でもいいということになる。
(なんということ──)
ミサキは身震いを禁じ得なかった。
もし、そうであるとしたら──誰もでもいいのだとしたら、犯人が誰なのか、「分かった」と声をあげた人物が次の標的になってもおかしくはない。
否。
(もし、わたしが犯人であったら──)
ミサキは自らの暗い空想に眉をひそめた。
(自分を捕まえるかもしれない探偵の息の根を止めなくては──と決意するのではないか)
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。