吉田 篤弘
第十話 ポケットの中のE[其の一]
 NとSなるアルファベットで示されたふたつの極を持ち、そのふたつの極が発生させる磁力によって、強い磁性体を持ったものを引き寄せる物体を磁石と云う。
 肉体的に云えば、「身を挺し」、精神的に云えば、「死を覚悟するほどの心意気」で何ごとかに臨むさまを命がけと云う。
 わずかな音や声のみならず、ほんのわずかな切れはしのような言葉から、その背後にひろがる事物を敏感に察知することを耳ざといと云う。
 そうして磁石のように引き寄せ、命がけで事件を追って耳ざとく真相に迫った結果、他所の報道機関を出し抜くかたちで驚嘆すべき事実を世に伝えること及びその記事をスクープと云う。
「始めましょう」とミサキが宣言したとき、
「何をです?」と除夜はとぼけていたが、
「決まっているじゃないですか、犯人を捕まえるんです」
 ミサキは決然として答えた。
「というと、ミサキさんは犯人が誰なのか分かったんですか」
「いえ、分かりません。でも、あきらかな犯人の痕跡があるじゃないですか」
「そうでしたっけ?」
「アルファベットの刻印ですよ。あれは間違いなく犯人が施したものと断定していいのではないでしょうか」
「たしかに」
「逆に云えば、こちらには、あのアルファベットしかないんです」
「たしかに──」
 除夜の同意を得たミサキは権田に申し出て、いま一度ご遺体に刻印されたアルファベットの写真を、D、E、S、P、A、Iと六枚並べて、縦にしたり横にしたりしながらじっくりと検分した。
 とりわけ、菜緒さんに刻印された「E」の一字を、
「目に焼きつけます」
 と神妙に眉をひそめると、
「そういえば、この刻印は焼きつけたもののようです」
 と権田が説明を加えた。
「焼印ですか」
 ミサキは目を閉じても「E」の一字が脳裏に浮かぶほど凝視し、そうしたところで、
「このEの字、かなり癖がありますよね」
 除夜に写真を示した。
「真ん中の横棒が妙に短いです」
「本当だ」
 除夜は指摘された文字の癖を確認し、「他には何か?」と問うと、
「いえ、それだけです」
 ミサキはため息をついて肩を落とした。
「判明したのはそれだけでした」
 ところが、この一点がのちのち重要な鍵になってくると誰が予測しただろう。しかも、その鍵を開けたのは、かの少年であった。
 警察署の帰りに〈エデン〉に寄り、除夜とミサキはいつもの窓辺の席で、それぞれの想念にふけって、ぼんやりとしていた。
「除夜さんはどうです? あらためて六つのアルファベットを見て、何か思うところはありましたか?」
「いえ、僕は何ひとつ──。ミサキさんは大したものですよ」
「でも、発見がどうひろがっていくのか、わたしには見当もつきません」
「ポケットに入れておけばいいんですよ」
「ポケット?」
「ええ。どんな小さなことでもいいですから、おや? と思ったら、それを忘れないよう、頭の中に用意したポケットにしまっておくんです。そうすると、また何か発見したときに、ポケットの中のものと新たな発見が磁石のように結びついて、思いもよらないものを見せてくれるんです」
「それが、名探偵になる秘訣ですか」
「いや、いま思いつきました。というか、ミサキさんのさっきの発見に触発されて、僕自身が発見したんです。そうか、そうすればいいんだって」
「それでも除夜さんは、菜緒さんが亡くなったのは事故かもしれないと見ているんですか?」
「状況からして浮かび上がるのは、きわめて単純な接触事故であったということです。しかし、ミサキさんの云うとおり、それではアルファベットの謎が解けません」
「では、医者というのはどうでしょうか?」
「医者?」
「ええ」
 ミサキはそこでおもむろに遮光眼鏡をはずすと、そこにあたかも菜緒がいるかのように、
「病院に通っていましたよね?」
 と眼鏡に問いかけた。
「少なくとも、目の様子を診てもらっていたはずです。医者であれば、診察と称して、菜緒さんのうなじを見たり、触れたりすることも出来るでしょう」
「なるほど──それは素晴らしい発見です」
 除夜は窓の外の歩道を行き交う人々を眺めた。
「亡くなった六人に接点はなかった、と権田さんの調査ではそうなっています。しかし、もし六人が同じ医者にかかっていたという新たなる事実が発覚すれば、大いに考えられる道筋ではあるでしょう。ただ──」
「ただ?」
「たしかにうなじに触れることは出来るでしょうが、ごく小さなものとはいえ、それと知られることなく焼印を押すのは難しいように思います」
「ですよね──」
「でも、発想としては素晴らしいです。というか、医者と聞いて、ふいに僕のポケットの中にあったものと結びついたんです」
「それは──なんでしょう?」
「ええ──」と除夜が言いかけたとき、
「こんにちは」
 いかにも少年らしい甲高い声を響かせて現れたのは、新聞少年の上岡君だった。
「出来上がったんです」
 上岡少年は肩からさげたズックカバンから刷りたてと思しき自作のタブロイド判を取り出し、
「〈塔ノ下ニュース〉第11号です」
 と除夜に差し出した。
「貴重なアドバイスをいただきまして、探偵小説は断念し、冒険小説の連載を始めました」
 除夜がタブロイドのページを開くと、ニュースやコラムとは別に、「Kの冒険」と題された小説が掲載されていた。
「あやうく、盗作と呼ばれかねない小説を書いてしまうところでした。ご指導、誠にありがとうございました」
 ともすれば、皮肉にもとれることを、少年は瞳を輝かせていっさいの曇りなく話した。
「この、『K』というのは君自身のことなのかな?」
 除夜が問うと、
「そうです。僕自身のことを書いてみました。誰を真似るでもなく、僕自身のこれまでを、ありのまま書いたんです」
「なるほど」
 ミサキが感心したようにうなずいた。
「人生はいつでも命がけの冒険だからね」
「あ、それはいい言葉ですね。その言葉、次回の小説に書いても──」
「あっ」
 突然、ミサキが声を上げ、除夜から奪い取ったタブロイド新聞のフロントページを食い入るように見つめていた。
「この」と新聞の表題を指差し、「この英文字──〈TOUNOSHITA NEWS〉のNEWSのEをよく見てください」と除夜に促した。
「真ん中の横棒が妙に短いです。これはまさに、あの犯人が──」
「犯人?」
 と少年の瞳がさらに輝いた。
「なんのことです?」
「菜緒さんのうなじに焼印された、あのEと同じです」
 とミサキは除夜の耳もとで声をひそめた。
「ねぇ」と除夜は少年の瞳をまっすぐ見つめ、「このアルファベットの活字なんだけど」
「はい」
「これは、君の印刷所で作られた特製の活字だったよね?」
「ええ。このあいだお話ししたとおりです」
「たしか、アルファベットの活字が三組なくなっていて、それは、印刷所で働いていた植字工の──」
「久世さんです」
「うん。その久世さんが持ち去ったと──」
「ええ。間違いなく三組なくなっていました」
「怪しいわ」とミサキがつぶやいた。「その久世っていう植字工」
「久世さんが印刷所を辞めたのはいつのことだろう?」
 除夜の問いに、少年は「ええと」と目を閉じ、
「二年以上前になるかと思います──そうですね──二年と五ヶ月といったところでしょうか」
 記者らしく正確に答えた。
「連続殺人が始まったのは二年前ですよね」
 ミサキはきわめて早口でささやいたが、
「連続殺人?」
 さすがに新聞を発行するだけあって、耳ざとい少年は聞き逃さない。
「何があったんですか」
 前のめりで迫る少年を除夜はなだめ、
「協力してくれるかな?」
 と声をひそめた。
 少年は自分がひそひそ声の仲間に参入できることに興奮しつつ、「はい」と声を落として応じると、
「君にスクープを約束するから、久世さんが印刷所を辞めたあと、どこでどうしているか探ってほしいんだ」
「分かりました」
「いい? われわれだけの秘密だよ」
 除夜は少年の肩に手を当て、
「警察にも他所の新聞社にも、決して口外してはならない」
 肩を引き寄せて囁いた。
「うまくいったら、君の新聞のスクープとして記事にしたらいい」
「分かりました」
 少年とはじつに俊敏な生きものである。除夜からの信頼がよほど嬉しかったのか、
「すぐに調べてみます」
 と身をひるがえし、何かあてでもあるのか、
「突きとめたら報告します」
 と言い残して足早に去っていった。

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

(つづく)
著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。