こんなおろかなわたしにしあわせがくる

種田山頭火や尾崎放哉の自由律俳句を読んでいると、自由律俳句って〈こんな〉がキーワードなのかなあとおもうことがある。

こんなわたしが歩いてゆきます、こんなわたしにもしあわせがあります、こんなわたしがいきてゆきます。

  朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし  山頭火

こんなわたしがこんなところにいます。こんなことをしています。こんなふうに生きられています。生かせてもらっています。それが自由律なのではないか。

だから、自由律は場所をめぐる句がおおい。

  墓のうらに廻る  放哉

こんなわたしが墓のうらに廻る。でもその廻ったわたしはこんなわたしでも今生きているし、これからも生きていく。

自由律には、こんな、という鍵があるようにおもう。こんなわたしでも生きられました、生きて詠っていたんです、という鍵が。

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター