こんなおろかなわたしにしあわせがくる
種田山頭火や尾崎放哉の自由律俳句を読んでいると、自由律俳句って〈こんな〉がキーワードなのかなあとおもうことがある。
こんなわたしが歩いてゆきます、こんなわたしにもしあわせがあります、こんなわたしがいきてゆきます。
朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし 山頭火
こんなわたしがこんなところにいます。こんなことをしています。こんなふうに生きられています。生かせてもらっています。それが自由律なのではないか。
だから、自由律は場所をめぐる句がおおい。
墓のうらに廻る 放哉
こんなわたしが墓のうらに廻る。でもその廻ったわたしはこんなわたしでも今生きているし、これからも生きていく。
自由律には、こんな、という鍵があるようにおもう。こんなわたしでも生きられました、生きて詠っていたんです、という鍵が。