スポーツ文化評論家 玉木正之

2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツを知的に楽しむために── 
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家の玉木正之さんが、文化としてのスポーツの魅力を解き明かす。
第16回では、チームプレイと団体行動の違いから、体罰の問題、そしてスポーツという文化がどのように生まれたのかを解説していきます。


スポーツは
民主主義社会でしか生まれない?
 個人的な話題で恐縮だが、1993年にJリーグが生まれたとき、幼稚園児だった我が家の長男坊はサッカークラブに所属していた。
 ある日、練習を終えた5~6人の子どもたちが、ユニフォーム姿のまま我が家に集まり、大ブームを巻き起こしていたJリーグの、ジェフユナイテッド市原の試合をテレビ観戦することになった。相手チームがどこだったのかは忘れたが、その試合で、ドリブルを得意とする世界的プレイヤーのリトバルスキーが、ハーフウェーライン付近で相手選手のボールを奪い、そのボールを両脚で鮮やかに扱い、ディフェンダーを次々と抜いていった。
 「ああっ、リトバルスキー、素晴らしいドリブル! ひとり抜いて、ふたり目もかわして、3人、4人目も……」と、アナウンサーは絶叫したのだが、リトバルスキーは個人プレイに走りすぎたのか、相手ディフェンダーにボールをカットされ、チャンスは消えたのだった。
 「リトバルスキーの見事なドリブル! しかし、ボールはタッチラインの外へ。惜しかったですねえ」
 アナウンサーは残念そうな声を絞り出したが、その少し前、テレビ観戦中のサッカー少年たちは、声を揃えて「逆サイド! 逆サイド!」と叫んでいた。逆サイドには、手を挙げている味方選手がノーマークで立っていたのだ。チャンスが消えると、「ああ、もう、ダメだよ……」と子どもたちは残念がった。
 Jリーグ発足以来、急速に進化した日本のサッカー界で、現在このような実況中継をするアナウンサーはいなくなったであろう。そして幼稚園児のサッカー選手たちと同じように、ゴリ押しで相手選手を抜こうとした個人プレイを非難するに違いない。
 しかし、集団で行うスポーツと言えば、野球のイメージが強かった古い日本人は、どうしてもバッターの豪打やピッチャーの鮮やかな投球のような個人プレイに注目してしまうのだ。そこでサッカーのようなチームプレイの競技でも、ドリブルのような個人プレイに目が留まってしまう。古い日本人は、フィールド全体を見るのが苦手なのだ。
 Jリーグの誕生から四半世紀以上たった今、日本のサッカーファンのあいだにチームプレイという考え方も浸透したはずだ。が、たとえばチームプレイと団体(集団)行動の違いは? と訊かれて、すぐに明確に答えられる人はどれくらいいるだろうか?
 チームプレイとは「一人ひとりがそれぞれ異なる動きをして一つのチームとして機能すること」であり、団体行動とは「一つの集団(団体)が同じ行動をすること」である。だから、たとえばチームの合宿などで、○時起床、○時散歩、○時朝食、○時ミーティング……といった団体(集団)行動をすることは、チームのメンバーの結束、心のつながりを強めるには役立つだろうが、チームプレイの進歩には直接的にはつながらない、ということを認識するべきだろう。
 われわれ日本人は、主に学校での体育の時間でスポーツのやり方(ルール)は教わっても、チームプレイとは何か? といったことは教わらない。それはチームで行う競技のこと……と、なんとなく理解している程度でしかない。だからチームプレイと団体競技の違いも明確に認識できないままでいる人が多い。
 さらに問題なのは、「スポーツとは何か?」という根本的な課題も、学校の授業で教わらない。だからなんとなく、スポーツとはプロ野球とか大相撲とかオリンピックで行われているもの、という程度の認識しかないまま、誰もがスポーツを楽しみ、スポーツを応援している、というのが実情だ。
 2012~2013年ごろ、関西にある高校のバスケットボール部のキャプテンが、顧問の教師の体罰を苦に自殺したことがきっかけで、柔道その他のスポーツでも体罰が大きな社会問題となった。その時、テレビのワイドショーなどでもこの問題が取りあげられ、常日頃、政治経済や社会問題について語っているコメンテイターのなかに、次のような発言をする人物が何人かいた。
 「体罰がすべていけないというわけではないでしょう。一発や二発叩く程度ならいいけど、五発や六発もとなると問題ですよ。要は程度の問題ですね」
 こういう発言を耳にすると心底ガッカリする。わが国では、知識人と認められている人物でも、スポーツとは何か? と訊かれて、正しい答えを返すことができない。だから、このような間違いを平気で口にし、それを間違いだと咎(とが)める人もいないのだ。
 もちろん私も、かつてはそんな一人だった。体罰は、とくに部活動においては、教育的な指導として容認されていた。何しろ学校の体育の授業で、「スポーツは何か?」ということなど教えてくれなかったのだから。
 私も、スポーツライターとして不惑(40歳)を迎える頃になって、ようやく「スポーツとは何か?」という疑問を頭に思い浮かべるようになったのだ。調べてみると、ある書物には、スポーツとは経済が発達し、社会が豊かになり、ひとびとに余暇が生まれた結果の文化だと書かれていた。オリーブやブドウやワインの生産、ワインや穀物を入れる壺の生産などで社会が豊かになった古代ギリシアでは、余暇が生まれて、オリンポスの祭典競技を行うようになった。また産業革命で豊かになった近代イギリス(イングランド)では、サッカー、ラグビー、ボート、ボクシング……などの近代スポーツが生み出された。
 しかし、この説明は明らかに不十分だ。古代ギリシアよりもはるかに豊かな社会だったペルシア帝国は、なぜスポーツという文化を生み出せなかったのか? 漢、唐、元、明、清といった中華帝国や、あるいはセルジューク・トルコ、オスマン・トルコといったイスラム帝国も、産業革命初期のイギリスよりははるかに豊かな社会を築いたはず。だが、スポーツという文化を生み出し、発展させたのは、世界史のなかで古代ギリシアと近代イギリスだけなのだ。
 いったい、なぜ? という疑問に鮮やかな答えを提供してくれたのは、ユダヤ系ドイツ人のノルベルト・エリアス(1897~1990)という名の社会学者だった。彼は哲学者でもあり詩人でもある。
 古代ギリシアと近代イギリス――そこは経済的発展と同時に、世界に先駆けて民主主義社会を生み出し、発展させた地域。だから、スポーツという文化を生み出すことができた、というのがエリアスの説だった。
 民主主義社会がスポーツを生んだ。民主主義社会しかスポーツを生み出せない……いったい、なぜ?


この記事を書いた人

玉木正之(たまき・まさゆき)
スポーツ&音楽評論家。1952年4月6日、京都市生まれ。東京大学教養学部中退。現在は、横浜桐蔭大学客員教授、静岡文化芸術大学客員教授、石巻専修大学客員教授、立教大学大学院非常勤講師、 立教大学非常勤講師、筑波大学非常勤講師を務める。
ミニコミ出版の編集者等を経てフリーの雑誌記者(小学館『GORO』)になる。その後、スポーツライター、音楽評論家、小説家、放送作家として活躍。雑誌『朝日ジャーナル』『オール讀物』『ナンバー』『サンデー毎日』『音楽の友』『レコード藝術』『CDジャーナル』等の雑誌や、朝日、毎日、産経、日経各紙で、連載コラム、小説、音楽評論、スポーツ・コラムを執筆。数多くのTV番組にも出演。ラジオではレギュラー・ディスクジョッキーも務める。著書多数。
http://www.tamakimasayuki.com/libro.htm
イラスト/SUMMER HOUSE
イラストレーター。書籍・広告等のイラストを中心に、現在は映像やアートディレクションを含め活動。
http://smmrhouse.com