「茂山千五郎家HANAGATA五人衆が語る、狂言のこれから」の巻

大蔵流〈茂山千五郎家〉に生を受け、
京都1000年の魑 魅ちみ 魍魎 もうりょうをわらいで調伏する男、ここにあり。
この物語は、ややこしい京都の町で、いけずな京都人を能舞台におびきよせ、
一発の屁で調伏してしまう、不可思議な魅力をもつ茂山家の狂言の話である。
道行案内は、ぺぺこと茂山逸平と、修行中の慶和よしかずにて候。
狂言師としても花の盛りのHANAGATA五人衆の対談、後編です。

©Halca Uesugi

狂言、様々な試み
── 心・技・体、教育的古典狂言推進準備研修錬磨の会=TOPPA!
逸平:その良き時代に、すぐ消えていった新作をたくさん手掛けました。
千五郎:そのころは新作が多かったんですよ。
再演できないような新作もありますが、のびのびと狂言をしていた時代です。
そのころ僕らが20代でしたが、もう一回狂言の基本に立ち戻ってやろうか、と始めたのがTOPPAです。
茂:父たちの世代が「花形」という名前になり、僕たちは「花形狂言少年隊」でした。
僕たちが自分たちで新作狂言をするには早かった。
何年かしっかり古典をやって、狂言を自由に扱えるようになるステップとしてTOPPAをやろうということになったんです。
逸平:今一度原点に返るというのがTOPPAでしたね。
千五郎:「花形」という狂言会は、ほぼ新作を一本するのが大前提なんです。僕が21歳で花形に入って、童司(千之丞)はまだ中学生。「花形」の活動を一緒にするには早い。それで、TOPPAで一緒に狂言の原点に戻る活動をしたんです。
── 「かしずきの会」について、教えてください。
千五郎:「傅の会」は、弟の茂と一緒に何かしたいということと、子どもたちにも舞台の場数を踏ませようと思って始めました。兄弟ならではの狂言をお客様にお見せして、子どもがそれを見ながら育ってくれたらという思いがありました。
── 「傅の会」は、子ども料金500円でしたよね?
千五郎:気軽に学校の友達が見に来てもらえる値段設定にしたんです。僕らも子どものころ狂言の会でいろいろしてはいたけれど、友達が見に来ていたかというとそうではない。舞台はチケットの値段も高いので、子どもさんたちも気軽に見に来られる会ではなかったですしね。
── 子どもたちに見せていこうというイベントを結構していらっしゃいますね。逸平さんからいつも「10歳で狂言を見たらその子たちが大人になっても来てくれると思っている」というお話を聞きます。

千五郎:お客さんは同年代が多いんですよね。だから子どもが演じるときも、友達に見てもらって、狂言師とお客さんが一緒に年齢があがっていくといいなと思っています。
── 千五郎さんの「笑えない会」は、どのような会ですか。

千五郎:「笑えない会」は、落語の桂よね吉さんと20年くらい前に一緒にやりたいな、という話になってやっとできた会なんです。
お互いの芸をお互いのお客さんに見せて終わる、という会です。狂言を見に来たお客さん、落語を見に来たお客さんにも、互いの芸能を楽しんでいただきたい、という会が「笑えない会」です。僕自身も落語が好きなので半分趣味なんです。
狂言や落語は笑いのお芝居ではあるけれど、中には笑いの多くないもの、うたいや和歌を使っているものもあります。それも含めて狂言なんです。
35歳で始めたんですけれど、年齢技量的にまだ難しいというものにも挑戦していく。「お前それ笑えないわ」という、自分にとってもちょっと背伸びをして僕も挑戦していくんです。そういう曲は自分でやっていかないとできるようにならないんですよね。
最近上演回数が少ない曲も、一回はしていきたいですよね。
── 茂さんは、これからどんなことをされたいと思っていますか?
茂:これからも狂言師しかしていかないと思いますね。
毎日の舞台を一生懸命やって、ちょっとでも上手になれたらいい。どこかで何かのタイミングで花開くかもしれないし、開かないかもしれないし、それも自分の人生です。息子が狂言したいと言ったときに、「では頑張ってやってみるか」と言ってあげられるような地盤は最低限蓄えていきたいです。この中では、僕はわりと基本的な考え方のベクトルが保守なんです。リベラルが嫌いということではなくてね(笑)。みなさんのリベラルも認めるし、ぼくの保守も認めてくださいねという。何か新しいことという意欲は一番少ないかもしれませんが、古典の狂言をどう表現するかということは割とまじめに考えてやっています。
息子は今年小学2年生です。狂言をやらないという選択をするかもしれない、それは子どもたちの自由です。
千五郎の家では子どもたちに「やりなさい」という立場です。ここ(兄・千五郎家)が、狂言をやらないという選択肢を選べば、僕が子どもにやりなさい、ということになったと思う。千五郎のところは子どもが3人いるから、一番上からプレッシャーがかかっていくことになるんです。
千五郎:やりなさい、とは言わないですよね。ただ、やらないという選択肢をどんどん消していく(笑)。
一同:(爆笑)
── 宗彦さんは、これからどんなことをされたいと思っていますか?

宗彦:僕、もう一昨年くらいで夢全部かなえたので、人生勝ったかなと(笑)。
僕、小学校の文集に書いた夢を全部かなえたんですよ。テレビに出て、映画に出て、世界の都市に住んで。亡くなった祖父が「お前も狂言がうまくなったら、この表札を飾れるようになる家に住める」と言って、表札を書いてくれたんです。それでそんなにうまくならなかったけれど、家には住めたし(笑)。
穏やかに過ごして狂言をするには、この5人の関係性が大切なんですね。僕、この人たちのファンなんですよ。お金を払って、チケットを買って、この人たちの狂言を前から見るんですね。千五郎、逸平、千之丞、茂、その真ん中の立場にいられるのが好きなんです。
── みなさんのこと、大事なんですね。

宗彦:大事なんです。
一回、西宮の芸術センターで狂言をしたとき、泣きそうになりました。
久しぶりにミュージカル出たんですけれど、帰ってきたときに感動して泣きそうになりました。
昔の人と同じことを、今僕たちがしているんですよね。5人がしていることは、最先端と思われているけれど、みんな、昔の狂言師がやってきたことなんです。
新作として『棒縛り』がでたときね、もしちょっとだけ頭がいい人がいたら、「こんな棒で縛って手を広げるんやったらほどいたらええやんけ」と言ったと思うんです。集まっている狂言師が皆やろうとなったんだから、あほやったんだろうな、と(笑)。それをやっているのが僕らだから。
── 千之丞さんは、ご自身で作・演出をなさるプロジェクト、コント『ヒャクマンベン』と、新作狂言『マリコウジ』をされていますね。
これからしていきたいと思っていることは、どんなことですか?

千之丞:なんかこう、笑いというものの中に溶けてなくなっていきたいです。
うまくなるとか、どんな舞台にしたいということには、もうあまり関心がないんです。
一生手が届かないかもしれないけれど、蒸留された純度の高い99.9パーセントの笑いしかないものに近づきたい。自分がなくなって、大きな笑いという概念の中に溶けていかれたらいいなあと思います。
── 自我がなくなって自分も笑いの中に溶けていくということですか?
千之丞:お金持ちになりたいとか売れたいとか、そういうのはもういいですね。
面白いということがどういうことなのか、もうちょっと知りたい。
笑える作品は誰でも書けるんですよ。マニュアルに沿って書けばいい。
茂山千五郎家なら、単体で笑わせられる役者がそろっているので、何やっても面白い。それはそれでいいけれど、作品を作っていく人間としてそういう型を大量生産して死んでいくのも嫌だな、と思うんです。
僕たち5人もいなくなって、僕の台本もなくなって、それでも残る「笑い」ってどこにあるんだろう、そういう概念みたいなものが知りたいなあ、と思います。
テーマのある笑いとか興味がないんです。笑いそのものに関心があります。
── 逸平さんがこれからやっていきたいことはどんなことですか?
逸平:逸青会は、昨年10周年でしたから『鏡の松』を超える作品を書かないとということですね。40歳になったので、もう狂言だけしていたいなあ、と思います。
狂言だけして幸せそうだった祖父(千作)がうらやましくて仕方ない。
狂言だけしていられる老後はどうしたらできるのかなと考えています。
次世代と狂言の未来
── これまでの10年も変化があったと思いますが、これからの10年、狂言の未来について、どう考えておられますか?
茂:まずは狂言を知ってもらう、とりあえず見てもらうという入り口になる催しを続けて、新規のお客さんを増やしていかないといけませんね。同時に、既存のお客さんにも満足していただける狂言をするという両輪です。
5月3日には学校狂言もあります。京都の室町小学校の体育館で学校狂言を再現します。
逸平:狂言だけが流行りだすと、多分だめなんですよね。
僕らが若い良き時代は、薪能や能も流行った。自治体や企業にお金があったということです。僕たちだけでできることとそうでないことを見極めないといけないのだろうなと思います。着物が売れないと、僕たちが使う衣装がどんどん高くなっていく。時代と経済、芸能は関連し合っています。
── 和の文化を底上げしていくということですね。
逸平:残念ながらそこが惨敗しているところなので、そこをうまく回してくれる人が現れるのか。コラボしだすと間違ったものが流行りだす。王道のものがちゃんと流行らないといけませんね。僕もタビックスは使いますが、それが使われていることは、王道の足袋が売れていないということではないですか。原因をいろいろ考えないといけないですよね。
千之丞が言った、お弟子さんやお社中さんに教えるのも大事です。良き時代は、稽古場はおっさん臭かった。「糸へん」、つまり染色の旦那衆が元気だったんですね。だから、お稽古場に来る素人のお弟子さんがおっさんばかりだったんです。今は、男性が夜の7時くらいにここにきて稽古するということもできないですしね。
茂:“働き方改革”で、習い事や稽古もできるようになるんですかね(笑)。
千之丞:それぞれしていることが異なって、統一しないというのが茂山千五郎家です。
お稽古場を持っていて、それぞれ違う理由があって教えている。テレビに出るとか、新しいものを見せるとか、素人さんに教えるとか、違う考えで正反対のことを言う大人がいる家の中で育つという環境に子どもたちがいるわけです。だから、うちのお父さんとほかのおじさんが言うことがいつも反対だということが起こる。でも、よくよく見ると、この人はそれで正しいけれど、うちのお父さんはそれで正しいなという。矛盾している状態で受け入れる。だから成熟するのが早い家だと思いますよ。子どもが成長するには一番必要な環境です。
だから、今まで何かを変えてという感じではなくて、このままやっていくのがいいですよね。意見がみんな違うけれど仲良くやっていこうね、ということは共通している。
千五郎:確たる狂言があって、子どもたちにはそれをちゃんと教えていかなくてはならないと思っています。でも、それだけでは次世代も面白くないと思うんですよ。どこかで面白い狂言にシフトしていかないといけない。
狂言は20歳くらいまでは教えられた通りしかさせてもらえない。成長していくにしたがって、自分とお客さんの感性に合わせて個性が出てくる。子どもたちが、自分たちが主流になったときの時代の流れの中でやっていかないといけない時が来ます。子どもたちの時代の方が大変だとも思うんです。古典の芸能と現代の時間の流れがどんどんずれていっていますから。時代が進めば進むほど、その距離や層が乖離していくと思うんですよ。
子どもたちには、お芝居や映画、色々なものを見せていきたいですね。
(対談者プロフィール)
●十四世 茂山 千五郎(しげやま・せんごろう)大蔵流狂言師 五世千作の長男 茂山千五郎家当主
1972年生まれ。「茂山狂言会」花形狂言会改め「HANAGATA」、茂との兄弟会「傅之会」、落語家桂よね吉との二人会「笑えない会」を主催。2016年、十四世茂山千五郎を襲名。
●茂山宗彦(しげやま・もとひこ)大蔵流狂言師 二世七五三しめの長男で逸平の兄
1975年生まれ。1994年に従兄弟の茂山 茂・弟の茂山 逸平らと共に「花形狂言少年隊」を結成。弟逸平と共に、新作二人芝居<宗彦、逸平のThat’s Entertainment「おそれいります、シェイクスピアさん」> に挑戦するなど幅広く活躍する。
●茂山茂(しげやま・しげる)大蔵流狂言師 五世千作の次男、千五郎の弟
1975年生まれ。1994年に従兄弟の茂山 宗彦・弟の茂山 逸平らと共に「花形狂言少年隊」を結成。2015年より兄の千五郎と共に「傅之会」を発足。次世代の育成にも力を注ぐ。
●茂山逸平(しげやま・いっぺい) 大蔵流狂言師 二世七五三の次男で宗彦の弟
1979年京都生まれ。曾祖父故三世茂山千作、祖父四世茂山千作、父二世茂山七五三に師事。
甥と姪が生まれたときに、パパ、ママのほか、逸平さんをペペと呼んだので、茂山家では以降ぺぺと呼ばれるようになった。
●茂山千之丞(しげやま・せんのじょう)大蔵流狂言師 あきらの長男
1983年生まれ。1995年に、茂、宗彦、逸平が結成した「花形狂言少年隊」に入隊。2013年から作・演出を手がける新作“純狂言”集「マリコウジ」、コント公演「ヒャクマンベン」を始動。バイリンガル狂言師でもある。2018年、三世茂山千之丞を襲名。
狂言公演スケジュール
http://kyotokyogen.com/schedule/
『茂山逸平 風姿和伝 ぺぺの狂言はじめの一歩 』(春陽堂書店)中村 純・著
狂言こそ、同時代のエンターティメント!
大蔵流<茂山千五郎家>に生を受け、京都の魑魅魍魎を笑いで調伏する狂言師・茂山逸平が、「日本で一番古い、笑いのお芝居」を現代で楽しむための、ルールを解説。
当代狂言師たちが語る「狂言のこれから」と、逸平・慶和親子の関係性から伝統芸能の継承に触れる。

この記事を書いた人
構成・文/中村 純(なかむら・じゅん)
詩人、ライター、編集者。今年は、『風姿和伝』をしっかり編集します!

写真/上杉 遥(うえすぎ・はるか)
能楽写真家。今様白拍子研究所で幻の芸能白拍子の魅力を伝えるべく日々修行中。