「桃太郎侍」の原作者・山手樹一郎の時代

第1回 “井口長次・二”と『少年少女譚海』編集長時代
──「一年余日」「うぐいす侍」

さいたま文学館学芸員 影山 亮
 山手樹一郎という作家をどれだけの人々がご存知でしょうか。テレビ時代劇「桃太郎侍」の原作者だと説明すれば合点がいく人々も多少はいるかもしれませんが、おそらく文学研究に携わっている者でもその著作を読んだことがないのはもちろん、名前すら聞いたことがないのが実情でしょう。しかし、もしかしたら読書を娯楽として享受している一般読者のなかで、特に時代小説を好んで読んでいる人々のなかには、著作を読んだことや名前を聞いた人がいるかもしれません。実際、山手は随筆を含めると800以上の著作を発表し、多くの一般読者に愛読された人気作家のひとりでした。

写真1 山手樹一郎(提供:日本近代文学館)

写真2 『桃太郎侍』(1957年)のDVD

 本名、井口長次は明治32(1899)年、栃木県黒磯(現在の那須塩原市)で鉄道員の息子として生まれました。大正6(1917) 年に明治中学校を卒業後、中西屋(後丸の善)の子会社である小学新報社に入社し、『少女号』という雑誌の編集に携わるようになります。ちなみにこの年の10月にはじめての雑誌掲載作品である「鸚鵡おうむの声」を、『幼年世界』(博文館)に発表しています。この時期は『少女号』だけでなく、『少女文芸』『小学画報』『少年世界』などの少年少女向けの雑誌に「井口長二」の筆名で作品を発表していました。
 昭和2(1927)年にはかつて“雑誌王国”と称された博文館へ転社し、『少年世界』の編集を経て『少年少女譚海たんかい』の編集長に就任します。この編集長時代には、数多くの作家をその敏腕で育てていきました。盟友でもある山本周五郎は、
大衆小説を初めて書かせてくれたのは、山手樹一郎だつた。(略)ともかく金の必要があるから、書かしてくれと言うと、彼はじやア俺の言う通りに書くかと念をおすので、よし何でも言う通りにすると約束した。それで、書きあげたのが『疾風のはやて丸』という少年時代小説だつた。たしか五十枚ぐらいのもので、彼の言う通りに三度書き直して持つていつた。それが、僕の大衆小説というものに入つた最初だつたんですね。
(「畏友 山手樹一郎へ」『時代傑作小説』夏の臨時増刊号 昭和35[1960]年9月、三世社)
と回想しています。この人気雑誌の編集長として培った技法は若手作家に対してだけでなく、自作でも遺憾なく発揮されました。『少年少女譚海』の編集長に就任してからは同誌へ少年少女向けの作品掲載だけでなく、『新青年』や『サンデー毎日』『婦人画報』など青年や婦人層などが読者の雑誌へも作品が掲載され始めます。

写真3 『少年少女譚海』

 さて「山手樹一郎」という筆名はいつ出てくるのかと思われている方もいるかもしれませんが、昭和8(1933)年、井口長次はついに山手樹一郎という筆名で作品を執筆します。実は「山手樹一郎」という筆名は、山本周五郎のために用意されたものでした。健筆家だった周五郎は雑誌の同巻同号に2~3作品を掲載することも少なくありませんでした。そのため複数の筆名が必要になり、井口が用意したひとつが「山手樹一郎」だったのです。しかし井口自身も多作になってきたためか、博文館が編集者に作品執筆を禁止していたためでしょうか、周五郎のために用意した筆名「山手樹一郎」を使用することになりました。同年、山手は肥前藩と薩摩藩の争いを見事に取り成した若侍を描いた「一年余日」(『サンデー毎日』)を発表、同作を第1回サンデー毎日大衆小説懸賞に応募し、選外佳作となりました。ちなみにこの作品を草稿の段階で読み、アドバイスをしたのが山本周五郎だったのです。また同作は昭和9(1934)年に伊丹万作監督により『武道大鑑』のタイトルで映画化され、我が国最後の無声映画として上映されました。

写真4 雑誌に掲載された『武道大鑑』の情報

 昭和12(1937)年4月にはうぐいす取りを内職にする軽輩の又六と亀山藩を巡る騒動を描いた「うぐいす侍」(『サンデー毎日』)に発表、本作は片岡千恵蔵主演による映画化のみならず、後に仲代達也主演でラジオドラマ化されています。これら諸作の執筆と反響を受けるうちに、山手は専業作家として独り立ちすることを決意します。山手自身、
私は時代小説を書いて一本立ちになろうと腹をきめた時、時代小説の盲点はどこにあるだろうと考えてみた。そのころ(昭和八年前後)時代小説では股旅物や捕物帖、現代小説ではユーモア小説が流行していたが、時代ユーモア小説というようなものはほとんど見あたらなかった。
私はこれが穴だなと思ったので、時代小説にあたたかい微笑を取り入れてみようと心がけることにした。

(「あのことこのこと 三」、『山手樹一郎全集付録』昭和35[1960]年11月、講談社)
と振り返っているように、それまでの時代小説は中里介山「大菩薩峠」の机龍之介らの「ニヒル剣士」タイプ(尾崎秀樹ほつき)、長谷川伸が祖の股旅物、岡本綺堂らの捕物帳がほとんどでした。そのような状況下で山手はユーモア味を全面に押し出した作風、後に「明朗時代小説」と呼ばれるジャンルを標榜したのです。昭和14(1939)年10月、40歳のときに山手は博文館を退社し、専業作家へと転身を果たします。そしてチャンスはすぐにやってきました。それは岡山の『合同新聞』へ小説連載の依頼でした。山手はこの初めての新聞連載小説に次のようなタイトルを付けます。「桃太郎侍」——。

【今回のおすすめ春陽文庫】
『山手樹一郎短編時代小説全集』1(昭和55[1980]年5月、春陽堂書店)
※現在品切れ中
※「一年余日」「うぐいす侍」他11編収録

この記事を書いた人
影山 亮(かげやま・りょう)
1988年、東京生まれ。さいたま文学館学芸員、立教大学大学院博士課程後期課程。山手樹一郎を中心とした時代小説、大衆雑誌をテーマに研究。主な論文に「占領下における明朗時代小説の躍進 : B六判雑誌『読物と講談』と山手樹一郎『夢介千両みやげ』」(『立教大学日本文学』2020年1月)など。今冬の企画展「太宰治と埼玉の文豪展」を担当、来冬に江戸川乱歩に関する企画展を担当する。