「夏目漱石と春陽堂」連載連動企画として、また『泉鏡花〈怪談会〉全集』の増刷記念企画として、雑誌『新小説』に掲載された泉鏡花の談話「夏目さん」を全文公開いたします。
1916年12月9日に夏目漱石が亡くなると、春陽堂は急遽、『新小説』で漱石の追悼号を刊行することを決めました。そして、1917年1月2日という奥付で刊行されたのが、『新小説臨時号 文豪夏目漱石』でした。そこに掲載された「夏目さん」で鏡花は、漱石に初めて会った時の思い出を語っています。鏡花が漱石にどれほどほれ込んでいたのかが伝わる、味わい深い談話となっています。


夏目さん

泉鏡花
 臨時に漱石さんの特別号が出ますんですか、結構でございますね。あの方のことを、私に。えゝ、そりや、一寸はお目に掛りもしましたし、お世話に成つた事がありますから、思つてる事はお話し申しますけれども、恁うね、いきなりでは何うでせうか。しかしお急ぎなら、たゞ、ほんのおいで下すつた御挨拶だけですよ。
 はじめて、夏目さんにお目にかゝつたのは、然うですね、もう七八年に成ります。私がまだ土手三番町に居た時ですから、明治四十何年、と御覧なさい、すぐに其の年を云ふのにも差支えるほど用意のない処で、不整な事です、御ゆるしを願ひます。
 実はね、膝組で少しお願ひしたい事があつて、それが、月末の件ですよ。顔を見て笑つちや不可ません此方は大切な事でさあね。急いだもんですから、前へ手紙もあげないで、いきなり南町へ駆つけたもんです。まだ、それまでに、一度だつて逢つた事がないんでせう。八月だと思ひます。暑い真盛り。特に用向が用向と来て居るし、当人汗に成つて取次を頼んだものゝ、予ての風説なり、容子を思ふと、一面の識もない、唐突の客なんか、なか/\逢ひさうもない方だと知つて居ながら、不思議にまた、身勝手だが何だか、逢つておくんなさりさうにも思つたのが、幸ひ実に成りましてね、すぐ通して下すつた。
 あの、満韓ところ/”\の出来た、丁ど其の旅だちが、二三日中と云ふ処で、旅行鞄や何か、お支度最中の処の大分お忙しさうだつたのに、ゆつくり談話が出来ましてね。ゆつくりと云つたつて、江戸児えどつこだから長いことを饒舌しゃべるには及びません、半分いへば分つてくれる、てきぱきしたもので。それに、顔を見ると此方に体裁も、つくろひも、かけひきも何にも要らなくなる、又夏目さんの、あの意気ぢや、らうたつて、体裁も、つくろひも、其のかけひきも人にさせやしますまい。そこが偉い、親みのうちに、おのづから、品があつて、遠慮はないまでも、礼は失はせない。そしてね、相対すると、まるで暑さを忘れましたつけ、涼しい、潔い方でした。
 姿と、人がらは覚えて居ますが、座敷の模様だとか、床の間の様子なんぞはちつとも知らない、まるで見なかつたんでせう。いづれ、あの方の事だから、立派な書架もあんなすつたらうし、しかと心持、気分ですか、其の備はつた軸もの、額の類と云つたものもありましたらうけれど、何にも知りません。逢つて気が詰つて、さうした事に心をうつす余裕をなくされるんぢやない、夏目さんさへ、其処に居れば、何にも、そんなものは要らないのです。まあ、其の人さへ居れば、客に取つては道具も、装飾も、もう、ひといき申せば、座敷も、家も、極暑に風がなくつてもいつて云ふ方でした。
 それだのに、それだけに尚ほ、其の人が居なくなつては困りますのにね、――夏目金之助さんと云ふ名ばつかりになんなすつた。十二月十二日の朝、青山の斎場で銘旗にかゝれた、其の名を視た時には、何とも申されない気がしましたよ。私は不断から、夏目さんの、あの夏目金之助と云ふ、字と、字の形と、姿と、音と音の響とが、だいすきだつたんです、夏目さん、金之助さん、失礼だが、金さん。何うしても岡惚れをさせられるぢやありませんか。
 あの名に対して、禅坊さんが、木魚を割つたやうな異声を放つて、咄なんて喚いたのは変ぢやありませんか。いや、こんな事を云つて怒りやしませんか、夏目さんは怒りやしなさるまい。

(『新小説』臨時号「文豪夏目漱石」1917年1月より)
(※読みやすさを鑑み、編集部でルビを付しました)

『新小説』臨時号「文豪夏目漱石」1917年1月


≪≪関連書籍≫≫
『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の1冊!
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