第9回『青葡萄』──目下、伝染病流行ニ付キ、未熟ノ果物販売厳禁候

東海大学教授 堀 啓子

 感染症対策に苦慮の続く現代、過去の疾病もしばしば注目されるようです。明治時代に猛威を振るったコレラは、致死率の高さから〈コロリ〉の異名で恐れられました。しかし当時の人々がさらに恐れたのは、周囲の目でした。罹患が疑われた場合は近隣から警察に通報され、助かる確率の低かった病院びょういん(伝染病患者を隔離・治療した収容施設)に強制入院となり、その家族まで遠巻きにされたからです。紅葉自身の身近な体験を描いた『青葡萄』は、当時の緊迫感を余すところなく伝えてくる一作です。


 ある夕べ、気のおけない友人たちと会食をしていた「自分」を、門弟の春葉が呼びに来た。物陰で秘かに告げられたのは、もう一人の弟子の秋葉の急病が思わしくないという不穏な知らせである。急な客来のため、と友人の前をとりつくろい、急ぎ帰宅することになった。

自分は綽々しやく/\として身支度をしたつもりであつたが、有繫さすがに常ならぬ所が見えたか、一座は 物も言はずに目をそばめて、自分の心を読まむとする気色けしきであつた。
就中なかにも常から鋭いE氏の眼は烱〻ぎろ/\きらめいた。言へば必ず答へると云ふH氏の舌さへ動かなかつた。渠等かれらは何と無く疑つたに相違さうゐないのである。
話はここから動くのだが、読者にしてみれば「何を?」であろう。まだ何の説明もなく、よしんば客来ではないにしろ、誰かが急用で会食の座を離れることなど珍しくもない。これしきのことで、いったいどんな〈疑い〉が生まれるというのだろう。だがこれが明治の、しかも二十八年の初秋であると理解すれば、事態はにわかに深刻味を帯びてくる。

大村竹次郎の錦絵『虎列剌退治』明治十九年(東京都公文書館蔵 資料ID000373013)

じつは四十五年まで数えた明治の歴史上、コレラの発症者が三番目に多かったのがこの年だった。患者数は五万五千人を超え、死者数もその七割以上、四万人を上回る大惨事である。この伝染病がいかに猛威を振るい、人々を恐怖に陥れたかは想像に難くない。

明治二十九年十月、春陽堂版『青葡萄』(著者蔵書)、冒頭と奥付、口絵(渡辺省亭)

『青葡萄』はこの年の九月から十一月まで、『読売新聞』に連載された新聞小説である。限りなく実話に近い内容で、『ユリシーズ』(登場人物の一日のできごとを描いた、アイルランド作家ジョイスの長編小説)のようなスケール感はないが、たった一日だけの身近なできごとが克明に描かれる。時は八月二十五日、まだ暑く消化器系の病気が増える時期である。だが「自分」が会食先から飛んで帰った夕暮れは、さすがに秋の気配も満ちてきた。
開放あけはなした椽頭えんさきから涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通ふ虫のも聞える。平生いつもは庭の正面の百日紅さるすべりの枝に燈籠とうろうを釣るのが、今夜は闇で、葉越はごしに星の数が見えるばかり。台所には三分心さんぶしん玻璃燈ランプ黯澹あんたんとして、をんなどもの囁く声がする。妻と乳児ちのみとは午後ひるすぎから生家さとへ行つて、留守であるから、家内は森閑しんかんとして火の消えたやう。

心配そうに病室を窺う女中たち。(『青葡萄』前掲)

その静寂をついて、秋葉の苦悶の声が響く。
折しも四隣しりんしづかなるに、家内は水を打つたやうに沈黙ひそまりかへつてゐるのであるから、かれの嘔吐ののどに激して急上せきあげる響は、四辺あたりを払つて気立けたゝましくとゞろく。
庭を隔てゝ直前面すぐむかふに人の家がある。九時半頃であるから、声こそせぬが、未だ起きてゐる、此音このおとが聞えはせぬか、聞えて、密告でもされたら何とう。爾云さういためし幾多いくらもあるとやら。自分は伝染病者を隠蔽いんぺいする如き卑怯の男ではない。ないが、吐いたばかりで虎列拉コレラとははれぬ、今一日いまいちにち手を尽して見たいものを、虎列拉と騒がれて、撿疫掛けんえきがゝり蹈込ふみこまれでもしたら、患者の神経をいたませるのが、如何いかにも情無なさけない。
その激しいジレンマは、刻一刻と悪化する弟子の容態に比例して強まっていく。ただの腸胃カタルと思い込もうとしては劇症を見て打ち消さざるを得ず、往診に駆け付けた昵懇じっこんの医学士も眉をひそめる。義務とされた〈伝染病の届け出〉を怠ると、医師にも六十円の科料が課された時代である。これは少なく見積もっても現代の六十万円はくだらない大金で、ようはそれほど伝染病が剣呑とみなされていた証左である。ついには医師の側から、もう一人の医師のセカンドオピニオンを求めるよう促される。
 そして二人目の立ち合い医には、とうとう検疫医への届け出を言い渡される。ちなみにこの医師は診察後、飲めもせぬウイスキーをがぶ飲みし千鳥足で帰宅する。そして自宅の玄関先で、下着もつけずに直に来ていた服を脱いで石炭酸をぶっかけると、丸裸で家に入るという念の入れようである。ウイスキーも石炭酸も、有効なコレラの殺菌対策とされていたためである。
 いっぽう「自分」は、実家を勘当同然で飛び出してきた秋葉の不憫さに胸がつまる。
勘気を受けたとは云ひながら、又我家わがいへ我家わがいへ、優しき母やまことある弟も在ることなれば、其手のわづか一按ひとさすりは、自分が一瓶の葡萄酒よりも、病には利くであらうものを、孤影伶仃こえいれいていとして、病苦のうちにも義理を思はねばならぬかれの心細さは、更に幾許いかばかりであらう!

検疫医と警察に届けを出すと、巡査は井戸の検分まで怠らない。(『青葡萄』前掲)

この弟子がどうなったのか…。じつは、紅葉の数多い弟子の中でも、際立った実力を有した四人は紅葉門下の四天王と呼ばれた。『青葡萄』に実際の筆名で登場した(柳川やながわ春葉しゅんようもその一人である。もう一人、そのうちに数えられた人物に、小栗風葉おぐりふうようがいる。美しい文体で〈小紅葉〉と称され、紅葉亡き後は、その未完の大作『金色夜叉』を書き継ぎ、『金色夜叉 終篇』も完成させた。他にも代表作『青春』を筆頭に、数々の名作を遺したこの紅葉の愛弟子に、『しのぶ草』という作品がある。
じつはこの風葉こそが秋葉のモデルで、『しのぶ草』には、この時の実際の病状と師の高恩が細やかに綴られている。『青葡萄』同様、臨場感にあふれ、この病がいかに容易ならざるものであったかを主客両観点から眺めうる貴重な資料になっている。幸い、風葉は避病院からひと月ほどで退院した。若さ、体力、運などすべてが味方をしたのであろう。当時の避病院というのは、葬儀屋や火葬場に隣接したところも多かったといえば、無事快癒したことがどれほどの僥倖であったかは明らかであろう。

『しのぶ草』(其四「葡萄の露」)には、当時の模様が細部まで記されている。『花吹雪』(泉鏡花、田山花袋と共編、アサヒ書房 昭和十四年)に所収。(著者蔵書)

 なお『青葡萄』もまた未完である。そのため、後半で明かされるはずだったというタイトルの意味も定かではない。ただ、風葉は『しのぶ草』にて、この病因は二房の青葡萄、と記している。まさに官令おふれ甲第三十三号(明治十年)で、伝染病流行中は売買さえ禁じられたという未熟な果物は、恐ろしいものであった。

『読売新聞』(明治十年九月二十七日)には、「未熟ノ菓物」は「売買厳禁」とする「官令おふれ」が報じられている。


【今月のワンポイント:疾病】
 作中で「伝染病者を隠蔽する如き卑怯」とあるが、罹患者の隠蔽は当時珍しくなかった。病人は、看護も衛生面も行き届かない避病院に隔離されるため、回復の見込みはきわめて低い。また、残された身内は患者家族として白眼視される。コレラ患者を届け出ることが如何に義務であろうとも、メリットは殆どない。そのため隠蔽というケースは後を絶たず、逆に言えば公表された患者数などは氷山の一角ともされる。病人を抱えて苦しむ多くの人々は、避病院よりも新宗教にすがった。六月の本連載でとりあげた『紅白毒饅頭』の〈新宗教への期待〉はリアルな日常であった。


『春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)』春陽堂編集部(編)
春陽堂が1879年~1988年に発行した図書の総目録です。
書名索引付き、747ページ。序文は春陽堂書店5代目社長・和田欣之介。
表紙画は春陽堂から刊行された夏目漱石『四篇』のものをそのまま採用しました。


この記事を書いた人
堀 啓子(ほり・けいこ)
1970年生まれ。東海大学教授。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現職。国際児童文学館 令和3年度特別研究者。専門は日本近代文学、比較文学。2000年に尾崎紅葉の『金色夜叉』にアメリカの種本があることを発見、その翻訳『女より弱き者』(バーサ・クレー著、南雲堂フェニックス、2002年)も手がけた。主な著書に、『日本近代文学入門』(中公新書、2019年)、『日本ミステリー小説史』(中公新書、2014年)、『和装のヴィクトリア文学』(東海大学出版会、2012年)、共著に『21世紀における語ることの倫理』(ひつじ書房、2011年)などがある。