水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
待っていてくれたトゥール
8月22日 パリからトゥール
 夜中にSNCFの列車チケットをネットで予約して、朝の10時6分にモンパルナスから出発だ。可愛い犬たちも飼い主と一緒に旅行するらしい。トイレやごはんはどうするのか、他人事ながらちょっと心配である。
 チケットの引き取りやら列車の出発ホームやら、わからないことだらけだが、何とか乗り切った。席は1等車の2階の窓側。たまたまだが、景色を眺めるのが楽しみだ。
 すると隣に小さな女の子を連れた若いカップルが来て、席を交換してほしいと言うので、喜んで代わった。今度は一人の席で窓側なので余計都合がいい。
 もう今月いっぱいは遊びまくることにきめた。西洋古典語のオンライン授業だけは出るけれど、始めたばかりのロシア語は先生にお願いして、9月から再開ということにしていただいた。自分でも全く予想していなかったことだけれど、とにかくフランスでは自然に身体が動いてしまう。
 9月になれば、ソルボンヌの語学講座も始まるから、そうそう遊んでばかりはいられないだろう。でもまた、秋にはオペラ座やコメディフランセーズに行く楽しみがある。
 この列車は直通ではなくて、次の駅で降りてトゥール行きに乗り換えなければならない。居眠りしてはいられない。と思う間に窓の向こうには豊かな農地が広がっている。どこまで行っても平らである。
 そしてところどころに立っているのは、風力発電の装置だろうか。パリでは、何も知らないのにいつもいる場所に帰って来たような不思議な安堵感があったが、地方に来ると、やはり異国である。パリはフランスではないというのもそのせいなのかも知れない。
 今の速度は240キロ。でも全然速いとは感じない。
ふらんすの野は他者として駆けゆけりトワにもあらずあなたヴーにもあらず
 40年ぶりにトゥールにやって来た。もう覚えていないけれど、パリとは時間の流れ方が違うような静かな街である。中世には政治や文化の中心だったので、全体に気品があり、駅舎も美しい。学生時代の私はこの静謐に堪えられず、早くパリに行きたいと焦ったが、今回の小旅行はどうだろうか。
 予約したホテルに行くと、年配の受付の女性が、私の日本の住所が打ち込めないからと代わりにタイプしてくれと言う。重い荷物は置いて外出しなさい、見ているからと勧められて、リュックからアイパッドとアイフォンとお財布だけ袋に入れて、また街に出た。
 まずカフェでお昼を食べる。今日の料理が鶏肉のマッシュルームソースにパスタ添えなので早速頼む。大食いの私には量もちょうど良く、味もまあまあ美味しい。デザートはと訊かれて、つい断れずまたもアイスクリームを食べる。ダイエットは日本に帰ってからだ。
 最初に憧れの水上の城シュノンソーに行こうと、さんざん待って駅前からバスに乗ると、カードが使えず、細かいお金もなかったのですっかり困ってしまった。すると運転手さんはじゃあいいからと言って乗せてくれた。それではあまりに申し訳ないのであるだけの小銭を渡すと、受け取って、これであなたもチケットがあるんだからと微笑んでくれる。何と優しくスマートなのかと感謝を通り越して感嘆してしまった。運転も非常にうまく、ぶつかりそうなカーヴを鋭く切り抜けて行く。
 素晴らしい運転手さんのおかげでやっと目的地に着いたのだが、それからがまた大変である。ヴァカンスなので物凄い人出で、お城に入る前に一時間余り待たなければならない。
 そして、お庭からお城を垣間見ると、せっかく来たのに、思い描いていたほどの神秘的な美しさではなかった。中に入れば違うのかも知れないが、何とも気が揉めることである。
シュノンソー水にうつそみゆだねしをうつくしからずといへば沈める
 いざ入ってみると、ディアヌ・ド・ポワチエやカトリーヌ・ド・メディシスやフランソワ一世というフランス史の大立者にまつわるきらびやかな遺品でいっぱいだが、歴史に疎いのが残念である。貴婦人たちの天蓋付きの寝台がいくつもあって、寝てみたいと思った。面白かったのは厨房だった。壁に見事な銅鍋がずらりと並び、今も肉を焼いているかのように炉に電気の火が入っている。食べる者と食べられる者の闘いは、統治する者とされる者の闘いにも重なる。

けもの食む王侯の貌あかあかと照らす銅鍋の不老不死はも
 そして人混みに疲れて出て来ると、ちょうどトゥール駅行きのバスが行ってしまったところだった。また二時間待って、軽い食事のあと、ホテルにやっと戻ったのは何と10時だった。
 離れのような可愛いツインルームに通されて、トゥールの夜が更けてゆく。
 8月23日トゥール
 お花がいっぱいのテラスを通って朝食の小さなサロンに行く。マダムの心尽くしのジャムが美味しい。パンとコーヒー2杯に林檎ジュースやチーズまでいただいてしまった。
 今日はどこへ行こうかと考えて駅に向かう。
 シャンボールにしようとチケットを販売機で買おうとするが、故障らしくカードのお金だけ取られてしまった。身長2メートルくらいの駅員さんを呼び止めて話すと、同僚と話し合って、親切に振替のバス乗り場まで連れて行ってくれた。お礼の握手をして別れる。昨日もチケット無しでバスに乗せてもらったり、こちらの人たちは本当に親切だ。
 さて、バスの行き先はロッシュである。シャンボール行きはなかったので、これも行きたかったロッシュ城に向かうことになった。
 シャルル7世の寵姫アニエス・ソレルが住んだ城である。アンスティテュフランセの授業で習ったばかりだ。
 人の情けに会って、曇天の憂鬱が吹っ飛んだ。トゥールに感謝である。
うつむきて咲ける向日葵なにゆゑぞ愛されしひとの城に向かふに
いちめんのひまわり畑があったが、なぜか全部下を向いている。異常熱波で枯れてしまったのだろうか。
 ロッシュ城の礼拝堂に入ると、授業で習った通りのアニエス・ソレルの横たわる像の墓に出会ってしまった。わずか28歳で若さと美貌の盛りのうちに世を去った彼女は、生前の姿そのままに美しい。衝撃にしばらく動くことができなかった。
アニエス・ソレルうつつながらの墓のまへたましひふるふうをのごとくに
 昨日のシュノンソーはトゥールに着いたばかりでもあり、物凄い人出にうんざりしてやっぱりパリがいいと生意気な感想を持ったが、今日のロッシュは素晴らしかった。知る人ぞ知るお城なので観光客も少なく、土地の人もみなおおらかで親切である。街並みは中世からほとんど変わっていない。今にも騎士たちや姫君が道の向こうから現れて来そうだ。
 フランスの良さは地方にあると言われるのが、やっと少しわかったような気がした。
 バスでまたトゥールに戻り、大聖堂へ。ゴシック建築の圧倒的な荘厳さに打たれる。そして内陣のステンドグラスと左右に薔薇窓。シャルトルに勝るとも劣らない美しさだ。古都にふさわしい。ずっとここに座って神様をお迎えしたくなる。四十年前には来ようとも思わなかった場所である。待っていて下さった。
トゥール大聖堂仔羊のわれを待ちたまふその歳月にあまたの戀や
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を今年刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170