水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
ジェラール・フィリップ仲間と初対面、そして、薔薇窓へ
8月17日パリ
 パリ滞在3日目。今日はツイッター仲間とのお食事会である。この日をずっと楽しみに待っていた。
 おしゃれしてみんなに会おうと思って、黒いワンピースを持って来たのだが、くるぶしまでの長さなので、メトロには乗れそうもないと断念する。代わりに選んだのは白いレースのトップスと同じく白いレースのカーディガンに、いつものマゼンタピンクのパンツ。
 レースは野暮ったくて日本人とすぐわかるからいけないとか、赤系は目立つから駄目とか、ネットの事前情報はいろいろあったのだが、こちらに来てみると、そんなことよりも丈の長いワンピースの方が目立ちそうだ。
 それにメトロの駅は作りが古くて、全部階段なのだから、裾が長いと苦労するだろう。パンツがいちばんである。
 でも、今日ばかりは日本で買っておいた口紅を差す。シャネルのオードトワレも念入りに付ける。朝からわくわくである。
 午前中からひまだったので、早くホテルを出てしまい、方向も考えずにとにかく歩き始めた。目指す場所はシャトレ広場のブラッスリーである。ホテルはカルディナル・ルモワンヌが最寄りだから、地理的には近いはずだが、生来方向音痴の上に、地図も見ないで歩くのだから無謀である。滅茶苦茶に歩いているうちにパンテオンに着いてしまった。どうも方向が逆らしいと気づいて、サンミッシェルまで戻ったところで、とうとう諦めてメトロに乗った。
 サンミッシェルからシャトレはたった2駅。降りて長い長い通路を通って外に出ると、待ち合わせのブラッスリーはすぐ見つかった。

 ベルエポックを彷彿とさせる重厚な美しい内装で、従業員もみな洗練されている。なんと約束より1時間半も早かった。仕方ないので、フレッシュレモンのジュースをもらいひたすら待つ。そばに来てくれた従業員のムッシュが日本語で話しかけようとするので、フランス語でお願いしますと言ったら、何と日本語を学んでいたのだという。うれしくなって話す。
 待ちに待った友人たちの到着。リヨンからアンリアンヌ、パリのエマニュエルとジェロームの夫妻、一人だけ若い大学生のオーレリアン。みんなジェラール・フィリップの熱烈なファンである。作家のエマニュエルはジェラールについての大著を計画しているし、オーレリアンはまもなくジェラールをテーマとして卒論を出すのだという。
 日本からジェラール・フィリップの珍しい作品のDVDボックスをお土産に持って行ったら大変喜ばれた。
 みんな初めて会うのに、昔から知っているように懐かしい気持ちになるのはなぜなのだろう。パリの街そのものがそうなのだ。ずっと昔からここにいたような錯覚にとらわれる。
 日本で人気のフランス人俳優は誰かという話題になって、アラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・アジャーニ、ジュリエット・ビノシュなど、乏しい知識から知っている限り挙げて行く。ついでに作家や思想家にも及んで、プルースト、カミュ、デュラス、またデリダ、バルト、フーコーなどと言うと、みんな死者ばかりだということになり、フランス文化は凋落していると友人たちは嘆いた。
 日本では文化だけではない国力の凋落が語られて久しいけれど、フランスもやはりそうなのだろうか。一応仏文科の卒業生としては何とも寂しいことだ。
 1時から6時過ぎまで語り合って、やっとお開きになり、一足先にリヨンに帰ったアンリアンヌとも、エマニュエル、ジェローム夫妻とも再会を約束して別れた。
たましひは生きながらにして友を知る翼並ぶる大空は秋
8月19日パリ
 今日は午後から雨の予報で、あまり温度も上がらないようなので、出かけずにホテルの部屋で勉強しようかと思っていたが、目が覚めるとやっぱりシャルトルに行きたくなってしまった。モンパルナスから列車で一時間というからそう大変ではなさそうだ。
 いそいそと朝食に行くと、まだテーブルにクロワッサンが配られていない。これが朝の最大の楽しみなので、じっと待っているが果たしてどうだろうか30分待ってようやく若い女性がクロワッサンを持って降りて来た。今朝の幸福である。
 食べ終わると、少し迷ったが、やっぱりホテルを出た。最寄りのカルディナル・ルモワンヌからメトロに乗って、オデオンで乗り換え、SNCFのTERという列車に乗るためにモンパルナス・ビアンヴニュに向かう。
 シャルトルまでの往復は36ユーロ余り。葛原妙子の名歌「寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころつつましきためにはあらず」に歌われた有名な大聖堂の薔薇窓を見に行くのである。
 チケットは自動販売機で何とか買えたが、ホームがわからないので駅員さんに訊きまくった。基本的にフランスの人はきちんと訊けば親切なことが多い。観光立国のせいもあるだろう。販売機の前で、十代くらいの少年に、「どこで切符を買うのか教えて」と言われた。これで今買ったばかりだと言おうと思ったが、怪しいと困るので、「良く知らない」と答えてしまった。ちょっと気が咎めるが仕方がない。
 列車は緑の中を走って行く。ところどころに童話に出て来るような家がある。
こうした地方に住むのも長閑のどかでいいが、私ならやはりパリ市内が活気があって楽しいと思う。ただ、パリはメトロの駅や古いアパルトマンがほとんどバリアフリーでないので、老後に暮らすのはかなり大変だろう。それは今回痛感した。学生時代には考えもしなかったことである。
ヴェルサイユ、ランブイエ、マントノン歴史上に名高い場所の駅を通る。
 日本は山と森がいっぱいで、旅をするとさまざまな緑の差異が楽しめるが、今眺めているフランスの森はあまり色の違いを感じない。むしろ広大な田園地帯が印象に残る。
 面白いのが車内放送で、列車とホームが離れているのでお気をつけくださいとか、降りる方を先にしてくださいとか注意することだ。
 日本では普通だが、まさか大人の国フランスでもこのような注意が必要とは考えもしなかった。日本にはフランス幻想があって、フランスではこんなことはないなどとよく言われるが、人間はどこでも大して変わらないのかも知れない。
 シャルトルに着いた。大聖堂は意外に近い。左の塔がゴシック、右の塔がロマネスクという異なる様式で非対称なのも却って威厳を増している。
 さて中に入ると、一瞬拍子抜けのような思いにとらわれた。これが葛原妙子が生涯を賭けて見ようとした美なのか。薔薇窓はそれほど美しいようには思われなかった。
 だが、しばらく見つめているうちに、この美はカトリックの歴史あってのものなのだ、それゆえに葛原妙子は「寺院シャルトル」と明記したのだと気づいた。
祈りの美であるがゆえに、永遠に近づくことのできない歌人は渇仰の思いで心に描いたのだろう。
遠くから見ると、薔薇窓は曼荼羅のようでもあり、宇宙のようでもある。
一旦外に出て、カフェでオムレツを食べると正午の鐘が鳴った。もう一度入ることにする。今度は慄えるほど美しい。

創造主の泪のごときシャルトルのブルーは殺すわが言の葉を
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を今年刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170